
我が家では、ボクが中学2年まで借家住まいだったので、風呂は大家や隣家にもらい湯していた。
そんなこともあって、中学1、2年までは母親や妹と風呂に入ることもあったのだ。他のオンナの人のハダカにはちょっとだけ興味があっても、ねんねなボクは、母親や妹と風呂に入ることにはまったく抵抗がなかったし、性的には(無知なこともあって)まったく何も感じていなかった。
にもかかわらず。
にもかかわらずだ、そうやって家族の女と一緒に風呂に入っていると、なぜかボクのおちんちんがけなげにおっきくなってくるのだ。
もちろん、それは女性の裸体に興奮しているわけではなく、いったいなんでそうなるのか自分でも分からず、ただなんとなくバツが悪くてもじもじしているだけだった。母は、ただふふふと笑っているだけだった。後年になって、それがどういう意味だったのかが分かって少し赤面するのだが、当時は自分では何がなんだかまったく分かっていなかった。
男の子を産み育てたことのあるお母さんだったら、小さな男の子が性的興奮とは無関係におちんちんがおっきくなることがあるのを、何度か目撃しているだろう。
かくのごとく、男のちんちんは、性的興奮とは無関係に勃起するものであるけれども、当然、性的興奮でも勃起する。
成長してセックスというものを知るようになると、セックスをしたくなれば勃起してくるし、勃起をしてくるとセックスをしたくなるのである。
男のカラダというものはこのように見た目にもとても分かりやすいけれども、「あれ、待てよ」…と、最近になってちょっと疑問に思うことができた。
男のカラダの変化はこの通りであるのだけれども、オンナの場合は、どこがどのように変化するのだろうか。ずいぶん長く生きてきたけれども、そんなこと考えもしなかったし、思えば、女性に何かしらのキザシがあったときに“見た目の変化”を感じたこともなかった。見た目の変化がないから、男にとって女は、分かりづらい存在なのだろうか。
「女は、そういうとき、どこがどのように変化するのだ?」…と、女房に聴いてみた。
変化するのは、女房に言わせれば、子宮、なのだそうだ。子宮が、ズキンと疼くような感覚というか、熱く火照るような感覚というか、なにしろ男にはない器官だから、どんな感覚なのか、男にはなかなか想像しづらいものがあるけれども、カラダの奥底で、ぶわっと一気に花が咲くような感覚なのだろうか。
男の目の届かないところで、雲の切れ間から差し込む陽光の温みに堅いつぼみもほぐれて花開く瞬間があることを、男は敏感に察知しなければならないのだな。
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- 2006/05/31(水) 01:27:19|
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ぼんやりと風呂に入っていたら、ふと、「そういえばもうすぐ結婚記念日がくるな」と思い出し、忘れないように風呂上がりにパジャマに着替えてからカレンダーの日付に丸をしたのだった。
女房とは、つきあい始めて半年ほどで気持ちがすれ違い始め、「もうだめだ、こいつとはやってられない」と、きっぱり別れる決心をした。その矢先に、彼女が妊娠していることが分かった。不思議なものだ、あれほど避妊には気をつけていたつもりだったのに。
青天の霹靂だったが、話し合って、結局結婚することにした。
別れようと決心するくらいにお互いの気持ちが冷めていた者同士が結婚したのだから、はじめの頃はなかなか関係がぎくしゃくしていたものだ。「どうせ長くは続かないだろう」と、陰でささやく人もいたとかいないとか。
それが、二人の子どもが成人するくらいまで続く結婚生活になり、今でもまあまあ仲のいい夫婦でいるから、世の中分からないものだ。
あのとき彼女が妊娠していなかったら、たぶんボクたちは結婚していなかったと思うのだが、きっと、最初からこうなる運命に仕組まれていたのだろう。
女房の実家は、我が家からクルマで小一時間の街だ。
結婚式の朝、彼女は化粧や着付けのため、家族よりも一足先に一人でローカル線の一番列車に乗って我が家にやってきた。
車窓に流れる朝もやの田園風景。
その時のことを今になってあえて話し合ったりはしないけれども、もしかしたら彼女は、うきうきと心弾ませるというよりは、「なんでこうなってしまったんだろう」と、泣き出したいようなひどくブルーな気分で車窓に流れる風景を眺めていたのではないだろうか…と、ボクは想像してしまうのだ。
そんな風に女房を見ているから、寝相の悪い彼女がダブルベッドの中でボクの腹の上に足を投げ出して寝ていても、ボクはあまり文句は言えないのである。
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- 2006/05/30(火) 00:03:38|
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男のくせに、フランス映画には妙に惹かれる。
フランス映画には、男と女のドロドロした情念や、人の心の内面に光をあてたような作品が多いと思うのだけど、そんな、人の心の動きの描き出し方は、フランス映画の独壇場だ。
たとえば、渋谷の「ル・シネマ」のような小さな小屋で、ふらりと入ってみた時にたまたまやっていた映画がフランス映画だったりする。それは、映画ファンの話題にもならないような小品。小品といっても駄作ではない。普通の男と女の、普通の出会いや普通の別れが、淡々と描かれていたりする。シンプルな手づくりドレッシングのかかった野菜サラダのような、あっさりした味わいの作品だ。
観終わって、考えさせられもしないし、感動もしないし、涙も流さない。淡々と小屋を出て、同じビルの中にあるレストランで遅いランチを食べてみたりする。向かい合って座っている連れの者と、「まあ、悪くはなかったよね」などと感想を述べあって、にこりと笑いあう。
そのフランス映画の中で、男と女の出会いと別れが、淡々と描かれていたように、その映画を観ていた男と女も、大きな破綻もないまま、やがて淡々と別れていく。
「思えば、フランス映画のような出会いと別れだったのかもな」…と、男は少し卑屈な笑いかたをしてみるのだ。
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- 2006/05/29(月) 22:27:53|
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何年前のことだったか、一人の若い女性が、新幹線に乗ってボクの街に遊びにきた。
ボクは彼女を駅に迎えに出て、ちょうど昼に近い時間だったので、ときどき行くイタリアンレストランに連れて行って、少し早めのランチをとって、それから日本海に向かってクルマを走らせたのだった。
独身の彼女は、家庭のある男性とつつましい恋をしていた。何も望んではいけない割り切った恋でなければならないことを、彼女は一番よく知ってはいたつもりなのだが、それでもときどき胸がもやもやとせつなく苦しくなる。
親にも、親しい友だちにも話せない、たった一人で抱え込まなければならない恋。
ボクはその頃、ネットの掲示板でアヴァンチュール(冒険的な恋愛)を肯定する発言をすることがあったので、彼女はそれを見ていて、ボクだったら少しは自分のキモチを分かってくれるのではないかと、彼女のほうからボクにメールをくれるようになっていたのだ。
恋は、自分の幸せのためにするものだ。(相手の幸せを思うことも大切だけど)
だけど恋は、しばしば自分を苦しくさせる。
自分が苦しくなるような恋など、しないほうがいい…とボクは思うのだが、それでも人はときどき、ブレーキの甘くなった自転車で坂道を下っていくような、恋をしてしまう。
何度かのメールのやり取りののち、「一度津島サンとこに遊びに行こうかな」…と言うので、「おう、おいでおいで。日本海に一緒にドライブしよう」と、誘っていたのだった。
切ない恋は、完全な治療法が見つかっていない病気のようなものだ。病気を完治させるのは難しく、上手に上手に、その病気とつきあっていく覚悟でいなければならない。
砂浜続きの波打ち際の道や、海岸段丘の崖沿いの道など、中年オヤジは自分の体験談などを話してこの若い恋する女を笑わせたりしながら、淡々とクルマを走らせていく。
答えを出すためのドライブではない。
潮風を浴びて、苦しかった胸が少しだけ楽になるような、それはサナトリウムのようなドライブ。
半日のドライブも終わり、少しだけ心が軽くなったような面持ちで、笑顔で手を振って彼女は新幹線の改札口に吸い込まれていった。
その後もしばらく続いたメールのやり取りののち、彼女からのメールは自然と途絶えるようになった。「便りがないのは良い便り」…の言葉の通りに、あれから少しは彼女の心も元気になっているのだと、信じたい。
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- 2006/05/29(月) 00:22:58|
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たとえば異性と二人きりでいる時、ひとしきり語らいが続いたのち、ふと会話が途切れ、なかなか話の接ぎ穂が見つけられずに、少しばかり焦ったりすることがある。
えぇとえぇと…と、中空に意識を浮かせて、次の会話のきっかけを探す。
気もそぞろ、落ち着かないひとときである。
早く今の時間が流れ去ってくれないかと思う。
その一方で、会話が途切れても、その時間がちっとも苦痛ではなく、むしろ心地よくさえあり、おだやかな気分でサイレントなひとときに身を委ねることができることもある。
ああ幸せだなあ…とさえ、思えて。
ときめく恋ではなく、居心地のいい恋がいい。
言葉のプロペラを回し続けて先に進むのではなく、たおやかな風に身を任せてグライダーのように自然に行き着くところまで滑空していく…、そういう、居心地のいい恋がいい。
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- 2006/05/28(日) 11:31:31|
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一枚の記念写真がある。
さほど若くもなさそうな男と女が並んで写っている。
二人とも、うっすらとやわらかい笑みを浮かべている。
男は、体の後ろで手を組んでいるようだ。
半身ほど男に重なるようにぴったりと寄り添っている女のほうは、外側の手だけが写っている。
写真に写っているのはそれだけだ。
しかしこの二人、見えていない女の片方の手を、男は体のうしろに回した自分の手で握りしめているのだ。
写真には写っていない、二人のココロ。
何年か何十年かのちになって、ひさしぶりにこの写真を見ることになるであろう男と女だけには、その写真には写っていないものまでが見えてきて、少しだけ胸がきゅんとするのである。
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- 2006/05/26(金) 23:37:06|
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既に一度、「そろそろおつきあいは終わりにしたい」と、言われていたのだった。
「そんなこと言うなよ。少なくとも、ボクはまだきみとつきあっていたい」…と、そう言って引き止めていたのだった。
カレーライスづくりにはちょっと自信がある、と彼女は言っていた。ボクもカレーはきらいじゃない。
じゃあ一度きみのカレーライスを食べさせてもらおう…と、ボクは彼女の部屋にあがらせてもらったのだった。
ちょっとボクには落ち着かない部屋。なんとなくぎこちない二人。
そして彼女の自慢のカレーライス。
少し古い話なので、正確には覚えていないのだけれども、リップサービスも苦手なボクなので、「とっても美味しいよ! 最高だよ!」などという絶賛の言葉は、たぶん言えなかったのだ。
せいぜい、「うん、なかなか悪くないね」とか。
女性はしばしば、自分がせっかくつくった料理を、恋人や夫が誉めてくれなかったり美味しそうに食べてくれないと、つくる張り合いもなくなってがっかりするのだという。確かにそうなのだ。食べる側は、往々にしてつくる側の気持ちを忘れて、当たり前のようにテーブルの前に座れば当たり前のように料理が出てきて、当たり前の風情で料理を口に運んでしまうのだ。
「あ、これ、すっげえ美味い!」とでも、お世辞にでもそういうひと言を発すれば、どれだけつくった人の張り合いになるか。
一度は別れることも考えていたヒトだ。そのヒトがつくったカレーライスを、ボクは、当たり前のように食べて、月並みなコメントしか発しなかった。
もしかしたら、あのカレーライスの夜が、「やはりあたしはこのヒトと別れよう」と彼女に決心させた瞬間だったのではなかっただろうか。
彼女がついていたかもしれない小さなため息を、ボクは見逃していた。
言葉は、ただ単に自分の意見や感想を言うためだけのものではなく、相手の心をくすぐったり潤わせたりするためにこそ使いたいもの。
彼女にため息をつかせてしまったあの恋は、ボクの自滅試合だった。
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- 2006/05/26(金) 00:37:02|
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「そこがあたしの“秘密基地”なのよ」
…と、彼女は言った。
彼女が口にした“秘密基地”というフレーズに、時流やつまらない男に振り回されずに、彼女がしっかりと自分らしさを保っていられる場所を確保している生き様が感じられて、ボクは少し安心したのだった。
ネットを通して知り合った人たちの中から、ボクにはオフ会仲間ができた。なぜか女性、それも既婚者が多い。ボクの回りに人妻が集まってくるのか、人妻の中にボクが紛れ込んでしまったのか、それは定かではない。
あるとき、4人ほどの人妻のお茶会に、ボクは誘われていた。ヒマで仕事のなかった頃なので、誘われるとほいほいと出かけていた。既に、ボクが“おばさん化”していたのかもしれない。
その4人の人妻たちとのお茶会の中で、ボクはこういう問いかけをしてみた。
「妻たる女の身体は、誰のものか」
日頃から、とても分かりやすい性格だと言われている一人の人妻は、開口一番、「夫のもの」…と答えた。
その瞬間、残りの3人は、「えぇっ? そうじゃない!」…と、異議を唱えた。
では、誰のもの?
「自分のもの」
津島も、それが正解だと思う。
結婚した女性の身体が夫に従属する物であるかのような思い込みは、いささか安易ではないかと、津島は考える。
決して婚外の奔放な男女の結びつきを礼賛、奨励するわけではない。
そうではなくて、むしろ、婚姻関係の中で自分の身体をどう自己管理していくのか、ということだ。オトコに差し出すオンナの身体、ではなく、オトコにリスペクトされるオンナの、身体でなくてはならない。
婚姻関係、恋愛関係にあるから当然のように差し出されるべき“オンナの身体”…というのではなく、きっちりとリスペクトされていて、その上で自然に行き着く身体的結合、というものでありたい。
セックスをやれるかやれないか、ではなく、そのセックスのクオリティ(二人にとって本当に価値のある充実したひとときであったか、というような)の問題であると思う。
人は、記憶する生き物だ。
のちになって「あれはなかなか悪くないセックスだった」…と振り返られるようなセックスを、したいものだと思う。どうせするのであれば。
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- 2006/05/25(木) 01:28:59|
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ちょっと昔のアイドル歌手・石川秀美の歌に「あなたとハプニング」という曲があり、♪おぼえたてのフレンチキス〜…という歌い出しで始まっている。
今となってみれば、これは一つの“ミステリー”である。
作詞は大御所・安井かずみなので、ちゃんと言葉の意味を理解した上で詞を書いたのだと考えたいのだが、“フレンチキス”といえば、軽くチュッてするような爽やかな口づけではなく、舌と舌を絡み付かせ、相手の口の中まで激しく狂おしく舐め回し、よだれをだらだらにして、淫らの極致でする口づけのことだ。
“フランス人がするような、やらしいキス”という意味で、イギリス人が皮肉たっぷりにネーミングした言葉だ。ディープキスと同義である。
愛する者同士のあいだであれば、これほど官能的で耽美な口づけ作法もないが、若いアイドル歌手の持ち歌に「おぼえたてのフレンチキス云々」という歌詞が出てくると、「いったいお前は、どこでそんなものを覚えてきたのだ?!」と、少し気になる。
フレンチキスという言葉を、今でも真逆に理解している人は少なくないようだ。
そして、ネット上でもしばしば、「実はフレンチキスというのは…」といううんちくが出てくる。
軽くするキスなら、バードキスだ。小鳥がちゅんちゅんと何かをついばむ仕草に由来するか。スタンプキスという言葉もあるけど、言葉としては、バードキスのほうがやや風雅である。
津島は、昔一度だけ王様ゲームに参加したことがある。ゲームをしながら酒を飲むという習慣がないから、王様ゲームをしたのは後にも先にもあのとき一度だけだ。
そのゲームで津島は、他の参加男性とキスをすることになった。こういうときは、中途半端に照れたりせず、本気っぽいキスをして場が盛り上がれば何よりである。
立ち上がった津島と相方は、「よし、こうなったら本気で!」と目配せして、がしっと抱き合い、顔をお互い30度ほど左に傾け(もしかしたら、目もつぶっていたかもしれない)、強く強く唇を押しあて…、嗚呼、そのとき何を思ったのか津島は、思わず、自分の舌で閉じている相手の口をこじ開けようとしていたのだ!
すぐに我に返り、はっとしてカラダを引き離し、ちょっと照れて席に戻ったのだが、もう少ししたら、何か新しい別の世界に目覚めていたかもしれないと思うと(あるいは、相手を目覚めさせていたかもしれないと思うと)、冷汗三斗の思いであった。
今でも、女性とキスするほうが好きなので、幸い、まだ何か新しい別の世界には目覚めていないようである。
何はともあれ、一日のデートの終わりに軽いバードキスで別れるのがならわしの二人が、たまには女性のほうから「今夜はフレンチで♪」などと、ちょっとおねだりしてみるのも、いと趣あるものである。
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- 2006/05/22(月) 00:16:36|
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そのもの自体が悪いわけではなく、また、世間一般の評価が低いわけではなくても、個人的に“なんとなく”好きになれない…ってことがある。
たとえば、かつてボクは、出張の際の目的地の安い宿を探すのに『旅の窓口』というサイトを好んで使っていた。けっこうお気に入りだったのだ。ところが、この『旅の窓口』が楽天に買収されて『楽天トラベル』と名称を改めることになった途端に、ボクの中では急に気持ちが冷めてしまった。
今までものすごく大好きだった女の子が、他の男ともつきあっていたということが分かった途端に急に嫌いになってしまう感覚に似ているか。(そうなのか?)
『旅の窓口』IDから『楽天トラベル』IDに切り替えて引き続き利用してほしいという通知も来ていたけど、ボクは、「あ、そういうことならもういいや」…と。
そうして今度は、『ボーダフォン』が『ソフトバンクモバイル』とブランド名を変えるのだと。
ボクはauユーザーなので、自分には関係のない話なのだけど、なんだか「ああ、またか…」と、うら寂しい気持ちになってしまうのだった。
ライブドアは失速してしまったけど、それを含めて、ライブドアなんとかとか、楽天なんとかとか、ソフトバンクなんとかとか、まるでオセロゲームのように世の中を自社色に塗り替えていくことにしのぎを削っているように感じられて、気持ち的に、少しついていけない感じ。
ボーダフォンユーザー、あるいは、ボーダフォンファンは、ソフトバンクモバイルというブランド名変更を素直に受け入れられるのだろうか。
もしauが『楽天モバイル』とかに名前を変えてしまったら、ボクはちょっと考えてしまうかも。
考えてみれば、日本のボーダフォンは、数奇な運命をたどったキャリアだった。
はじまりはデジタルフォンとデジタルツーカーで、それがJフォンになって、それからボーダフォンになって、そしてこれからソフトバンクモバイルになっていく…。
たとえば、田舎生まれ田舎育ちの朴訥な「津島千代子」という娘がいたとして、運命のいたずらで外国人と結婚することになり、千代子・ジェファーソンとか名乗るようになり、外国で暮らしているうちに不幸にして夫が亡くなり、二番目の外国人の夫と再婚することになって、千代子・ベッケンバウアーとかいう名前になったりして、そのころには千代子自身もすっかりベッケンバウアー色に染まってしまい、あの朴訥な田舎娘の津島千代子はどこへ行ってしまったのだと、若い頃の千代子を知っている者としては、彼女の幸せを祈りつつも、ちょっと寂しい気持ちにかられてしまうような、そんな感じである。
すいません、ちょっと妄想に走ってしまいました。
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- 2006/05/19(金) 11:39:45|
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この季節に真冬の写真というのも恐縮なのだけど、今日ご覧いただくのは、毎年2月10日に開催される、秋田県仙北市西木町に古くから伝わる伝統行事「紙風船上げ」の一コマです。
平たく言えば、熱気球の理屈で、和紙で袋状に手づくりされたものにバーナーで熱風を送り込み、十分に膨らんだところで夜空に放って、五穀豊穣や家内安全、あるいは子どもたちの受験の合格などを祈る素朴な地域行事なのだけど、これ、一度現地でナマで見たら、絶対感動します!
ほんの数年前まではあまり有名でもなく、ほんとうに集落の中だけの「内輪の行事」だったのだけど、この頃は口コミで評判になって、旅行会社がツアーを組むほどになってきました。
手づくりの素朴な紙風船が厳寒の漆黒の夜空に吸い込まれていく様子もたいそう幻想的なのだけど、醍醐味は、誰でもこの行事に参加できるということです。バーナーで紙風船の中に熱気を送るあいだ、誰でもその紙風船に手をかけて支えていることが出来ます。あるいは、「手伝え手伝え」と声をかけられて、支え役に引き込まれたりします。
そうして、紙風船が熱気でぱんぱんに膨らんだら、「よおし、じゃあ上げるぞお」と声がかかり、いっせぇのせっで手を離して紙風船を夜空に放つわけです。
自分の手から離れた紙風船が夜空に吸い込まれていく様には、一層の感慨を覚えるわけで…。
最初に見た時からボクはこの行事の虜になり、毎年毎年何人もの人に声をかけて、一緒に見に行ってました。ずいぶんと遠方の人にも来てもらいました。そうして、やはりみんな感動して帰っていきます。
一つだけ断っておくと、この紙風船上げの夜は、めちゃくちゃ寒いです。おそらく、氷点下10度よりも下回っているかもしれません。カメラのシャッターを切るために手袋を脱ぐと、たちまち指先がかじかんできて、写真を撮り終わったら即刻手袋をしないわけにはいきません。足の裏にも冷えが伝わってきます。見栄を張って薄着なんかしてた日にゃ、確実に風邪をひきます。
そんなハードな環境なのに、それでもあれだけの人たちが繰り出すのだから、あの祭りには、とても人を惹きつけるものがあるのでしょう。
人はしばしば、自身が体験したいくつかの記憶を忘れるものだけど、あんな紙風船上げの夜のように、カラダの芯まで刻み付けられたような記憶は、忘れたくても忘れられるものではないでしょう。
ボクのことは忘れてもいいよ。でも、君があの日あの場所にいたことは、忘れたくても忘れられないでしょう。
君のカラダに刻まれたあの日の記憶。
それでいいのだと想って、あの日ボクは君と一緒に、あの場所にいました。
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- 2006/05/18(木) 23:42:35|
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今日はちょっと面白い“事件”があった。
仕事で、ある会社に伺ったのだが、今まで対応してくれていたその会社の幹部社員が、急に会社を辞めていたのだ。
最初は別の担当者と何度も打ち合わせを重ねていたのだが、どうもスムーズに話が進まないということで、社内で担当者が変わり、新担当者となったその人は、なかなか“やり手”みたいで、今度はてきぱきと事が進むのかなと期待していた矢先だった。
十分な仕事の引き継ぎもないまま会社を離れてしまったらしく、話はまた振り出しに戻ってしまった。担当者が変わるたびに方針が180度変わったりして、こちらとしてもずいぶんと振り回されたことだった。
“会社を辞めた”と書いたが、もっと正確に言えば、“辞めさせられた”、あるいは、“会社にいられなくなった”…ということか。
どうも、配下の女子社員にヨカラヌちょっかいを出していたみたいなのだ。
まあ、世の中いろんなのがいるから、酔っぱらうと女の人の体に触りたがるとか、下ネタ連発して女の人の反応を見て楽しんでいるとか、しょうもない、呆れられるスケベオヤジはどこにもいるけど(自戒自戒…)、ほんとうに女性に堪え難い苦痛を与えるようなことをしていたとしたら、それはもうれっきとした犯罪の領域だ。
どうして、そういうアプローチの仕方しか出来ないのだろうかねえ。
本人同士さえ合意の上のことであれば、人目をしのぶうたかたの恋というものは、あってもいいだろう。だけれども、相手が望んでいないのに、力づくでこちらに引き寄せようとするいびつな恋愛作法は、いかがなものだろうか。
その人を手中におさめたければ、その人に、愛されているという実感を与える努力を、そして、その人が、こちらを愛してくれるようなひと工夫を、重ねることではないだろうか。
まあ、ストレートな言い方をさせてもらえれば、愛したいとか愛されたいとかではなく、ただ“やりたい”だけだから、恋愛の望ましき手続きをはしょってまるで上司が部下に業務命令でも出すような感覚で事を進めようとするわけで、結局はただいっそう嫌悪され、挙句に、自らの地位すらも失ってしまうのだ。(今までそういうやり方で成功したケースもあっただろうから、ちょっと調子に乗り過ぎたのかもしれないけど)
たとえ世の中からは好ましく思われないような関係であったとしても、当人同士さえ心を通わし合える間柄になれていたら、お互いに、幸せな時間を持てただろうに。
もったいないことである。
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- 2006/05/18(木) 00:40:27|
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女性の後ろ姿が目に飛び込んできた時、他に見るものもないので、自然に視線がヒップにいってしまう。
(こんな動機で女性のお尻を見るのは不純ですか?)
男であれ女であれ、長く生きていれば誰だって体型は崩れてくるものだから、体型の美醜についてはとやかく言わないけれども、ただ、造形学的に見て、美しいものはやはり美しい。
きゅっと締まったきれいな形のお尻を見ると(仮にそれが内部での涙ぐましい矯正の賜物であったとしても)、ほれぼれとしてしまう。
まさか、お尻に一目惚れして、その勢いで、そのお尻の持ち主である女性まで好きになってしまうなどという展開はまずないだろうけれども、いったいに、美しい女性のお尻は、男の目を惹き付けて止まないものであるだろう。
元来、動物のオスは、メスのお尻にセックスアピールを感じるように、本能に刷り込まれているのだ。種の保存の法則にのっとって、メスは尻で勝負するのだ。
ただし、これは四足歩行の動物の話。
四足歩行だと、メスのお尻はオスの鼻先に来ることだってある。一番セックスアピールしやすい部位でもあるのだ。
ところが、わがホモサピエンスは、進化の過程で四足歩行から二足歩行に移行し、メス、もとい、女性のお尻は、必ずしも男性の目から近い存在ではなくなってしまった。正面を向いて向き合うと、相手のお尻は見えなくなってしまう。
では、女性は何を持ってセックスアピールのツールとするのか。
それがつまり、おっぱい、なんですね。
女性のおっぱいのふくよかな丸みは、オスの本能に刷り込まれたメスのお尻の双丘への憧憬の、いわば代用品であるわけです。
他の哺乳動物と比べてみればよく分かります。どんなに人間に近い動物だって、人間の女性のようなふくよかなおっぱいを持っているメスはありません。
また、赤ん坊に母乳を飲ませるだけなら、あんなふくよかなふくらみは必要ないのですよね。
オトコが、女性のお尻やおっぱいに目がいってしまうのは、種の保存の法則にのっとって、正しいことなのです。(きっぱり)
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- 2006/05/17(水) 01:35:14|
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遠方の出版社やデザイン会社とメールでやり取りしながら仕事をしていると、深夜のとんでもない時間にメールが入ることがある。
おいおい、こんな真夜中まで仕事してるのかよ…と、ワーカホリックぶりに唖然とするのだ。
もっとも、ボクだってそんな時間までだらだらと起きているのだから、人様のことはとやかく言えないのだけど。
そういう仕事のメールをやり取りする相手は、なぜか女性であることが多い。
都会では、深夜まで、あるいは、徹夜してまで働いているワーキングガールが少なくないのだろうか。
〆切に追われて、ふらふらになりながら仕事をしているのかと思うと、ちょっと可愛そうになる。
十分な報酬をもらっているとか、彼女自身のステップアップのためであるとか、すごく達成感のある仕事をしている実感があるのなら、そういう取り組み方もいいだろうけど、何か、そうやって死にものぐるいに頑張らないと職業人として生き残れない…という悲愴感があるのだとしたら、ほんとうにそうまでして人は頑張らなければいけないのか、ちょっと分からなくなってくる。
「ちゃんと寝てるの? 夜更かしは美容によくないよ」などと、メールだけのつきあいの真夜中のワーキングガールの、激務を慰めるのである。
さてと、我が社も今夜はこれで店じまいだ。
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- 2006/05/16(火) 03:25:03|
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今日は女房が、隣のO市の海鮮市場まで鮮魚を買いにいきたい、と言っていた。
つまりボクに運転手をやれということだから、朝からそのつもりで気持ちの準備をしていた。
そして毎度のことだが、いざとなるとなかなか出発しようとする様子がない。
朝はゆっくり寝ているし、洗濯を始めるし、パソコンでソリテアを始めるし(彼女は一日何時間でもソリテアをやっていられる人だ)、午後からテレビでサスペンスドラマが始まると、「これも最後まで観たいな」…などと言い出す。
行かないなら行かないで、ボクも気持ちを切り替えて別のことに取りかかりたいので、「どうするんだ? 行かないのか?」と質すと、彼女はそれを“ボクが行くのを面倒くさがっている”というように解釈して、「いいわよ、どうせもう遅いし」などと、まるでボクのせいで行きそびれたかのような言い方をする。
こういうとき、ボクも機嫌が悪い場合だと、「ったく、お前が行きたいって言うからそのつもりでいたんじゃないか。いいよ、もう!」と、誰のせいだか分からないぐしゃぐしゃなつまらない一日になってしまう。
こういう顛末になるのはお互いともO型のため、ということが大きいのではないかと思っている。
よく言えば臨機応変、悪く言えば優柔不断。
ボクは、行っても行かなくてもどっちでもいいんだよ、と思っていれば、女房のほうは、行きたいんだけどあなたが行きたくないのなら行かなくていいわ、なんて考えている。
今日はそれほど機嫌が悪くはなかったので、「いいよ、今からでも行こうよ」と、ボクのほうから水をむける。
そんなこんなで、夕方に近い時間に出発して、海鮮市場で買物をして、ここまで来たついでだからと、義兄の家に寄ることにする。義兄の家に寄ろうと言ったのは女房のほうだ。
行けば行ったで、義兄は、いい酒飲み相手が来たと、がんがんとボクにビールをすすめる。
「おとうさん、何を本気で飲んでるのよ!」と女房が怒る。ばーか、日曜の夕方近い時間にこの家に立ち寄ったら、こうなるのは最初から分かり切ってることじゃないか。
まったく、計画性とか先読みの出来ないO型には困ったものである。(…ってか)
そうして、女房は女房で、山歩き好きの義姉からたんまりと山菜をせしめて、帰りは女房の運転で、小一時間かけて帰宅するのである。お互い、それなりにご機嫌で。
そんな、O型同士夫婦の日曜日。
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- 2006/05/15(月) 02:10:19|
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軽井沢の地を最初に踏んだのは、四半世紀以上も昔のことだ。
その当時ボクは東京の写真学校に通っていて、ある年の初夏の週末、千葉出身のクラスメートが仲間と一緒に日帰り電車ピクニックをするというのに加えさせてもらった。
新宿から中央線で小淵沢まで行き、小海線で小諸まで出て、信越線で軽井沢に立ち寄って上野に戻るコースだった。
このクラスメートの男女混合の仲間というのは、高校時代からの仲良しグループだったようで、二十代になってからもいつもつるんで遊び回っていて、毎年夏になると、房総の海にキャンプに行くのが恒例行事になっていて、泳いだりバーベキューをしたりして楽しんで、夜は、少し酔っぱらった勢いも借りて、月明かりの下、みんなスッポンポンになって波打ち際でたわむれるのだと言う。
若い男女が素っ裸になって…という点に妙に反応してしまうのだが、しかし、そういうシチュエーションだと、案外、特に違和感もなく、ことさらヤラシイ気分もなく、なんだか自然に健全な気分ですぅっと楽しめてしまうものなのかもしれない。
それと似たような経験がボクにもある。
二十代の頃、東京の友人夫婦が秋田に遊びにきて、ボクたち夫婦と山奥の秘湯に泊まりがけで遊びにいくことになった。
その温泉には混浴の露天風呂もあるのだけど、さすがにその頃のボクらの感覚では、混浴というのはちょっと抵抗があって、男は男同士、女は女同士で、風呂に入っていたのだ。
ところが、夜もとっぷりと暮れて、ボクらもかなりビールに酔い、今宵最後のひとっ風呂をとなったときに、誰からともなく「めんどくせえから一緒に入ったっていいんじゃないか?」ということになって、勢いでどぼんと混浴露天風呂につかってみたら、不思議なくらいに穏やかな心地よい気分でそのひとときを過ごせたのだ。友人の奥さんの裸とか、自分の奥さんの裸とか、不思議なほど、“どうでもいいこと”のように思えてきてしまうのだ。
それは、酔っていたための感覚の麻痺もあったかもしれないが、ああいう山の中だと、自然のパワーで人間の心も浄化されて、町の中にいる時と比べて邪心のようなものが薄れてしまうのだろうかとも、思ったことだった。
(町の中におりてくると、やっぱりスケベな自分に戻っていることだし…)
まあ、そんなわけで、信州の軽井沢に行くと、房州の夜の海辺でスッポンポンで波と戯れている若い男女の図をついつい思い浮かべてしまう哀しい習性が、身に付いてしまったのであった。
- 軽井沢 旧三笠ホテル -
※今回は写真があと5枚あります。→
[軽井沢で海辺の妄想]の続きを読むテーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/05/14(日) 01:36:58|
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そういえば、いしのようこの姉、石野真子も、“達成感”のある恋をした人だったなあ。
彼女の恋人の本宅は大阪にあったのだけど、仕事か何かで東京に来る時は、普通に石野真子宅を宿にするのだった。
そういう二人の関係は奥さんも積極的に容認していたらしい。
思うに、彼は(相手が複数であっても)ちゃんと女性を愛せる人であったから、奥さんとしてもしっかりと夫に愛されているという実感があって、石野真子の存在によって家庭の平和がおびやかされるとか、夫を他の女に奪われるとかといった不安を感じずに済んだのではないだろうか。
彼は、40代半ばで癌に冒され、闘病生活に入る。
本妻と石野真子は、手分けして交代交代で彼を看病する。そして、今際のきわの彼の両手を二人でベッドの左右から握り、彼の最期を見送るのだ。
のちになって本妻は、「真子ちゃんがいてくれたおかげでちゃんと主人を送ることが出来た」というような、好意的なコメントをしている。
この、三人の運命の歯車の噛み合い方、なんかスゴイな…と、思ったことだった。
津島も、そういう最期に憧れるな。
今夜が峠というときに、なじみの女たちがみんなベッドの周りに揃い、妻がボクの右手を握り、A子が左手を握り、B子が右足をさすり、C子が左足をさすり…
問題は、D子以降だな…
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- 2006/05/13(土) 11:45:26|
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昨夜の日テレの『ダウンタウンDX』で、いしのようこ(津島、好きなタイプです)が、「恋をしている時は、相手の素性が気にならない」…というような発言をして、他の人たちから目を丸くされていた。
そりゃあまあ、一般的には、目を丸くされるのが当然だと思う。
人を好きになったら、年齢、誕生日、血液型、職業、収入、出身地、学歴、趣味etc,etc…何でもかんでも一切合切、相手のことはすべて知っていないと不安になってきたり気が済まなくなってきたりするのが普通なのかもしれない。
しかし、津島的には、いしののような考え方、なんとなくわかるなあ…と、思う。
「素性をチェックしないということは、相手が既婚者かもしれなかったりするわけでしょ!?」と、他の出演者からツッコミを入れられていたけれども、いしのとしては、「愛し合っていればそれはまあ別に…」特に重要な問題ではない、ということらしい。
人は、“情報”によって恋をするものではない。
今二人のあいだに確かに感じられる“磁力”、それさえ信じられれば、それで十分に幸せなのじゃないか…と。
“磁力”を信じる強さ(それと、ウソの“磁力”を見抜ける目)がないから、“情報”についつい依存してしまうのではないか。
たとえば長く一緒に暮らしている夫婦が、磁力的なものは既に完全に消滅しているのに、形骸としてだけの夫婦の形を続け、日々、お互いを嫌悪したり攻撃したりして人生を食いつぶしていくのは、まったく本末転倒な話だ。
人を愛することも自己責任。幸せを実感することも自己責任。
しかし、“依存”に流れない恋をするのは、凡人にはなかなか難しい。
いしの、なかなかの「恋愛達観者」と見た。
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- 2006/05/13(土) 00:32:30|
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夫婦で週末のドライブをしていて、ちょっとエッチ系の話になった時、ニョーボがぽつりと、「あたしは、今までしていないことが三つある」と言うのだ。
それは何かとたずねたら、「クルマでするのと、外でするのと、他の人とするのと」…なのだそうだ。
うーむ、そのうちの二つくらいは、ボクでよかったらいくらでもおつきあいするのだけど、あとの一つはボクではどうにもならないので、自分で調達してもらうしかない。
車内でするかしないかはともかく、クルマというのは、男と女のドラマには欠かせない小道具(大道具?)の一つと言える。
つきあい始めてから、二人きりではじめて遠くまでドライブするのも一つのステップだし、オトコは帰り道のルート上にちゃんと“休める場所”があることをインプットしていたり、どちらかがどちらかをクルマで家の近くまで送り、「じゃあね」と、クルマの降り際にさりげなくチュッてするのも、悪くない瞬間である。
まっすぐの長い道を片手ハンドルでクルーズしていて、左手をアームレストに休ませていると、助手席のヒトが、自然にすぅっと右手を重ねてきたりもする。
そして、その手を握り返したりして…
クルマは、うまく使えば、男と女の関係を、一層“熟成”させてくれるのである。
若い頃は、いつかベンツを駆る日を憧れたこともあったけれども、今になってみると、むしろクルマは“軽”でもいいんじゃないかと、思い始めている。
お金がないから軽で我慢する…という考えではなく、移動手段として軽は必要十分で、維持費が安く済む分を他の贅沢に回したほうが、ずっと豊かな気分で過ごせるのではないかと。
津島個人は、次に買い替えるクルマはきっと軽になると思うのだけれども、一つだけ条件がある。
それは、“クルマの中で寝られること”。
津島は、今年だけでも、片道500km超のロングドライブを既に3回している。クルマで仮眠、あるいは熟睡したのは7晩にもなる。津島にとっては、“車内で熟睡できるクルマ”が“いいクルマ”なのだ。
幸い、今乗っている三菱コルトは、助手席をフルフラットにして後席を目一杯リクライニングすると、体を伸ばして寝ることが出来て、なかなか快適なのである。
試してみたことはないけれども、たぶん、“する”ことも出来るのではないかと思う…。
さて、では、軽で体を伸ばして寝られるクルマがあるのか。
ネットで調べてみると、あるんだな、これが。
たとえばホンダのバモス。
後席をたたむと、車内の後ろに実に奥行き180cmもの空間が出来る。しかも、二人並んでゆっくり寝られる幅もある。これならば、心置きなく、
することが、もとい、寝ることが出来る。
いつでも寝られるクルマでドライブデートをするなんて、まるで、部屋をリザーブしておいてからホテルのバーで待ち合わせするくらいアヤシゲだけれども、それはさておき、ベンツとかベーエムとかレクサスとかでなくても、軽だって十分にワクワクする楽しい人生を送れそうな気が、するのだ。
- 写真は、6年前にフランクフルトの街角で撮ったsmart -
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- 2006/05/12(金) 02:15:22|
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アヴァンチュール経験のある友人Kは、デートの最中に爆睡してしまったことがある。
前々からデートの約束をしていたのに、前の日になって急な仕事が入り、結局夜通しデスクワークをするはめになり、ほとんど一睡も出来ずに待ち合わせの場所に向かわざるを得なかったのだ。
やばいぞやばいぞ、油断してたら眠ってしまうぞ…と気持ちを引き締めていたつもりだったけれども、ふかふかのベッドに横たわったとたんに、彼は深い深い眠りに落ちてしまったのだ。
寝不足の時の睡魔というのは、比較的短時間で昇華できるものだ。Kが彼女の横で爆睡していた時間も、そんなには長くなかったと思うのだが、限られた時間しか一緒に過ごせない二人なのに、いきなりガーガー眠ってしまったのでは、Kとしてもひどくバツが悪い。
「うわ、寝てしまってたね。すまないすまない」
「ううん、あなたの寝顔を見ていて、ちょっと幸せだったわ」…
疲れていたので、Kはいびきをかいていたかもしれない。だらしなく口をあけてよだれを垂らしていたかもしれない。
そんなかっこ悪い醜態を見せているのに、それでも「幸せだった」と、彼女は言う。
恋って、案外ほんとうはそういうものなのかもしれない。
かっこいいところだけを見せて、それで相手の恋心をつなぎ止めようとするのではなく、かなりかっこ悪いところまで見せつけても、それでも相手は好きでいてくれる…そういう恋をしたいものだな、と思う。
- 日光金谷ホテル -
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- 2006/05/11(木) 01:28:49|
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皆さんにアドバイスをいただいたりしながらずっと引っ張ってきたボクのブラジル行きでしたが、大山鳴動してナントヤラ、今日になって今度のブラジル話は立ち消えになりました。
早い話、クライアントと折り合いがつかなかったんです。
先方は、「ブラジルまでタダで行かせてやるんだから、タダ(に近いギャラ)で仕事してきてくれないか」…と考えていたみたいで、それはあまりに職業人をバカにした話だなと。
どうしてもと頼られるなら儲からない仕事も引き受ける義理人情は持っているつもりだけれども、人や世の中を舐めたような態度は願い下げだ。
ブラジルは、日本から見ると地球の真裏。
最初仕事の話があった時は、そんな遠くまで行けるのかと有頂天になったのだけれども、やっぱりなかなか辿り着けない遠い土地でした。
それでも、ずっと『地球の歩き方・ブラジル編』を読んだりして、もう半分ほどブラジルには行った気分になっていたほど親しみを覚えていたところなので、いつか必ずプライベートで行ってみたいと思う。
いつか行ってみたいと言えば、先日のドライブ旅行の帰り道、山形県金山町を走っていたら、一瞬だけど木造の屋根付の橋を見かけた。
この町にはもともと風雅の気質がある。
あの日は家路を急いでいたのでそのまま通り過ぎたけれども、いつかゆっくりと訪れてみたい町だ。
屋根付の橋…といえば、マディソン郡の橋、である。
いい映画だった。
主人公が中年のカメラマンということもあり、非常に、非常にボクに夢を抱かせてくれた(^^)
行きずりのカメラマンと、土地の農夫の妻。
二人のあいだにほのかな恋心が芽生えたのは間違いないが、肌を重ねる関係までに至ったのかは、残念ながら映画の中では描かれていない。
でも、たぶん、そういうことはあったのだ、と思いたい。(同業の夢見る中年カメラマンとしては)
誰彼なくあけっぴろげに話せる想い出話ではなくとも、いつかふと想い出したときに、ついつい顔がほころんでしまうような、そんな甘酸っぱい想い出を持てた人は、幸せだと思う。
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- 2006/05/10(水) 01:13:37|
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ゴールデンウィークに夫婦でドライブ旅行をするときは、ボクらはしばしばラブホテルを利用するのだ。
普通の旅館やホテルは早くから満室になっていることが多いし、仮に空いていたとしてもトップシーズン料金になっていてバカらしい。その点、ラブホテルだと、予約なんていらないし、ちょっと郊外を走っていればすぐに見つかるので少しくらい旅の予定が狂っても泊まる場所に不自由することはない。料金も非常にリーズナブル。豪華な料理や温泉大浴場などは最初から求めていないので、食事はそのあたりのレストランで済ませて、コンビニで缶ビールでも買って、郊外のちかちかとケバいネオンを目印にちょっとクルマを走らせれば、ゆったりとした清潔なバスタブと、ふかふかのベッドが待ってくれている。
一日中運転していた疲れと、ビールの心地よい酔いとで、ラブホテル本来の“あらまほしき”使い道も忘れて、ベッドに入るなり、たちまちすとんと深い眠りに落ちてしまうのである。
今回のドライブ旅行では息子も一緒だったので、さすがにラブホテルというわけにもいかず、軽井沢の帰り、高崎まで来て、観光案内所で空いている宿を探してみたけれども案の定どこも満杯。駅前で無線LANの電波をキャッチしたのでノートパソコンをネットにつなげて周辺の安宿を探してみたら、前橋に青柳旅館という宿を見つけた。すかさず携帯電話で、もう一杯かしらとたずねたらまだ空いているという。もう泊まれりゃどこでもいいわけで、即決で前橋に直行するのである。
この青柳旅館、なかなか悪くないのである。「意外におしゃれ」とかいうのかというと、その逆。なんていうのか、木造の、非常に古い時代の下宿屋や安アパートを彷彿とさせる、「安普請の王道」をいくビジネス旅館なのだ。ボクには、学生時代に過ごしたぼろアパートが思い出されて、すこぶる居心地がよかった。本棚にはかなりの冊数のコミックが並び、朝食のバイキングもおざなりではないかなりの数のおかずが並ぶ。ヘタな温泉旅館やビジネスホテルよりも、よほど気が利いている。
ボク個人の好みで言えばこの宿はまったく申し分がないのだが、ここで旅行中最大のアクシデントが起こった。
翌朝のチェックアウト時、いくら下駄箱を探してもボクの靴が見当たらないのだ。他の客が間違って履いていったのだとしても、似たような靴が残っているわけでもない。貧相なくたびれた合成皮革の靴があるだけだ。
どうにも弱った。宿のおやじさんやおかみさんも交えて、さてどうしたものかと。まあどうせ、ボクは靴にはあまり頓着しないほうなので、おそらく誰かが間違って履いていったのだろうということにして、とりあえずボクはこの下駄箱に残っている貧相な合成皮革の靴を履いて旅を続けても構わないと思っている。
宿にはボクの携帯の番号を書き残して、「もし間違って履いていった人があとから何か言ってきたら、よきように取りはからってください」とお願いしてきた。
履いてきた靴よりも貧相な靴を履いて帰るのは少し癪だけど。
しかも実は、履いてきた靴自体が、以前ボクが飲み屋で間違えて履いてきた靴だった。
本当はもう少しいい靴を履いていったのだけれども、その日はかなり酔っぱらっていたみたいで、似たような少し安っぽい靴を間違えて履いてきてしまった。面倒くさくてそのまま履き続けていた。
そんな話をしていたら女房が、
「あなたって、“わらしべ長者”じゃなくって、“わらしべ貧乏”ね」。
けだし名言。
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- 2006/05/08(月) 23:20:21|
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ドライブは、一人でするのが好きである。
気ままにクルマを走らせて、気になる風景を見つけたらすっとクルマを止めて、あるいは、ぐぐっとクルマをバックさせて、気ままにシャッターを切るのだ。
同乗者があると、そんな、ちっとも先に進まないドライブではイライラしてしまうのではないかと、かえってこちらが気を使い過ぎてしまい、気になる風景があってもそのままクルマを走らせて、結局自分のフラストレーションになったりするのである。
それでも最近のうちの女房は、そんな各駅停車のドライブに連れ出しても、あまり文句は言わない。よくできた写真屋の女房だ。
ゴールデンウィークの家族ドライブは、どこに行くかも決めないままとりあえず家を出て、走りながら、さてどこへ行こうかと思案していた。
佐渡へ行ってみたいと女房が言い出し、新潟港まで行ってみたけれども、ちょうどいい船の便がなくそれは断念。ならばいっそ軽井沢まで行ってみようと、ここはボクの一存で決めた。
ボクは前にも行ったことはあるのだけど、女房には未踏の地。よほど思い切らないと足を伸ばせない土地だ。三笠ホテルを見せてやったら、彼女も少しは喜んでくれるんじゃないかと、読んだ。
これは、一つの賭けでもある。
軽井沢までは時間もかかるし、クルマに乗っているだけでもくたびれる。せっかく連れて行っても、「えっ、なに? これだけ?」なんて思われたのでは徒労もいいところだ。
はたして、青空の清々しい旧軽の雑木林の中の旧三笠ホテル。
入場券を買うと、女房はボクを置いてすたすたと先に進んでいってしまう。これは悪くない兆候だ。女房には少し子どもじみたところがあって、買物や観光などで、自分の気に入っているものや気になるものがあると、同行者のことを忘れて一人でさっさと先に行ってしまうのだ。よく小さい子どもが迷子になるパターンだ。
雑踏の中だと、彼女を見失わないようにこちらで気を張っていなければならないけど、こういうところだと少しくらい放っておいてもはぐれることはないだろう。こちらも気兼ねなく、ゆっくりと自分のペースで写真を撮って回るのだ。案外彼女のほうにも、「あたしは先に行ってるけど、あなたはゆっくり写真を撮ってていいわよ」というような気遣いがあるのかもしれない。
十分に納得のいくだけシャッターを切って、スリッパを靴に履き替えて玄関を出ると、前庭のベンチで女房はのんびりとひなたぼっこをしながらボクを待っているのである。
- 軽井沢 旧三笠ホテル -
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- 2006/05/08(月) 00:48:20|
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たとえば朝の十時頃に待ち合わせをしたとしよう。
ボクはまずその人に、ちゃんと朝ご飯は食べてきたか、おなかはすいていないか、たずねるのだ。
それから、昼ご飯は何にするか、何を食べたいか、その人の希望をたずねるのだ。
「お弁当をつくってきたの。たいしたものじゃないけど」
ええ?!
予期せぬことに、ボクは少し戸惑う。
日頃から弁当をつくりなれている人なら造作ないことなのかもしれないが、こういう形での一日の過ごし方で、手づくりの弁当をごちそうになるなどということは、ついぞなかったことだったし、考えてもみなかったことで、ボクは新鮮な驚きを覚えるのだ。
たとえば城址公園の木陰のベンチに並んで座り、おいなりさんをほおばる。
ああ、悪くない時間だなあ。至福のひとときだなあ。
その人は、ポットにコーヒーまでつくってきてくれている。
なんだか話が出来過ぎているように感じられて、もしかしたらそのコーヒーには何か怪しげな毒でも盛られているのではないかと、うがった想像をしてしまう。
毒でも愛でも、どちらでも構わないと、ボクはそのコーヒーを一気に飲み干す。
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- 2006/05/03(水) 00:54:27|
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