
ああ、いつになったら秋田に帰れるのでしょうか。
富山の道にはずいぶん詳しくなって(^^;、地図も見ないで縦横に走り回っているけれども、こなしてもこなしても仕事が残ってしまう。
朝イチで撮らなければならないものが滑川にあるので、さきほど、高岡の撮影を終えてから滑川まで走ってきたのだけど、明日は滑川の他、富山市や伏木市、それに高岡市でも撮影が残っている。
無駄に行ったり来たりしている感じもしなくもない。
もし万が一明日中に全部撮れなかったら、もう一晩富山に留まらないといけなくなる。
富山、嫌いじゃないけど、秋田、恋しいです。
ていうか、風呂入りたいな。
道の駅の洗面所で手足や顔を洗って間に合わせるのも限界だぞ。
クルマであちこち移動しているホームレスの気分だ。
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- 2006/04/29(土) 21:32:03|
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今いるところはどこか。
それはヒミツ。
…じゃなくて、氷見。
道の駅氷見、にいます。
ちょっと調べたらここにFreeSpotがあったので。
予算がある仕事ならビジネスホテル泊もありだけど、超低予算なので、最初からクルマでも寝られる準備で家を出てきた。
なれるとクルマで寝ながらの旅もけっこう楽しいもんだよ。
あすからGW。
あちこち混むんだろうな。
早く家に帰りたいな。
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- 2006/04/28(金) 21:56:48|
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他県に拠点のある会社の方と、短期の仕事をすることになった。
「秋田のことはあまりよく分からないので、いろいろ教えてもらえないか」ということである。
本業である写真のほうも、何点かは撮らせてもらえるらしい。
このごろ少しヒマ過ぎて、稼ぎも少なく、息をするのも申し訳なく思っていたくらいだから、フロックといえども、予定外に舞い込んできた仕事は有り難い。
それで、昨夜はその会社の人たち三人と顔合わせということで、夕方から秋田市内の繁華街の居酒屋で一献傾けた。
ちなみに、他県の会社からなぜボクにご指名になったのかというと、ネットで、手伝ってもらえそうな(あるいは、ヒマそうな)秋田のカメラマンを探していたら、たまたまボクが仕事用に開いているHPを見つけたらしいのだ。
来るメールといえば圧倒的にスパムばかりだが、たまには朗報も運んできてくれるインターネットだ。
若い頃と違って、最近のボクはあまり酒をがぶ飲みしたいとも思わず、一、二時間程度の軽い酒席で十分満足なのだけど、昨夜は、初対面なのに話も弾み、客人たちも秋田の地酒や肴にたいそう満足だったようで、延々5時間以上に及ぶ大酒宴となった。
この人たちとは、いい仕事ができそうだ。
客人の一人は妙齢の女性であった。
ボクは、自己紹介の意味も兼ねて、自分の署名入りの記事が載っている地元のローカル誌を差し出したのだけれども、それをしげしげと見入って、彼女は質問してくるのだ。
「あのう、聞いてもいいですか? あたしにも“津島”っていうペンネームを使っている友人がいるんで、一瞬ドキッとしたんですけど、“津島”って、何か特別な意味とかあるんですか?」
ボクはニヤリとして、
「津島ってのはね、太宰治の本名なんですよ」
(ああ、なあるほど!)…と、声には出さずに、彼女はとても大きくうなづいた。
きっと、彼女の友人が津島というペンネームを使っていた意味が、今すぅっと理解できたのだろう。
たぶん、きっと彼も、太宰治にちょっとかぶれたところがあって、「言われてみれば…」って感じで、確かに彼にそういうところがあると、彼女は思い出しているのだ。
かの地の津島クンが、彼女にとって、とても親密な友人なのか、ただの仕事上のつきあい程度の間柄なのかは知る由もないが、あの大きなうなづき方からすると、ちょっとばかり思い入れのある男性ではないだろうかと、ボクは読んだのだった。
さて、他県の方々と一献傾けたばかりだけど、今度はボクが他県に赴きます。
あしたから足掛け四日間、富山に出張です。明日は一日移動日で、28、29日あたりは富山市や高岡市、小矢部市の周辺をうろちょろしてます。
PCは持っていくので、うまくネットにつなげられたら現地からもアクセスを試みるけど、もしかしたらしばらく消息不明ってことになるかもしれないので、悪しからずってことで。
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- 2006/04/26(水) 18:02:48|
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先日、再放送だったけど、テレビで、「ハルとナツ」という、ブラジル移民を題材にしたドラマをやっていた。
ボクは近々ブラジルに取材にいく話があるので、下調べを兼ねて、“ブラジル関係”にはつとめて目を通しているのだ。
(目を通せば通すほど、現地の治安の悪さが聞こえてきて、かなりひるんでいる(^^; 今度ばかりはちゃんと旅行保険かけていこうかと…)
ブラジルに移民で渡った人たちは、ほとんどが貧農で、日本にいても満足に食っていけない人たちばかりなのだ。一方ブラジルでは、それまでの奴隷が使えなくなって、コーヒー農場が新しい労働力を求めていた。そんな日伯の利害が一致して、日本で養えない人たちをブラジルに送り込むことになったのだ。「移民」と言えば聞こえはいいけれども「棄民」にほかならない、という言い方をする人もいる。
それに、行く前の話では、ほんの出稼ぎ感覚で2、3年がむしゃらに働けばかなりの金を稼ぐことが出来て、それを手みやげにして故郷に錦を飾れるかのような宣伝文句だったのだ。その夢もついえて、働けど働けど希望の光は見えてこず、望郷の念に胸を焦がしながらブラジルの土に還っていった人たちがほとんど。
人に降りかかる運命は、時として非常に残酷だ。
一つの村の村民が全員移民をするなどということはまずないだろうから、たとえば、一人の若い娘がいたとして、一軒隣の家の跡取りに嫁に行っていれば、貧しいながらも日本で細々と暮らしていけたであろうに、たまたまこっちの家の息子のところに嫁に来てしまったばっかりに、ブラジルくんだりまで連れてこられたりするわけだ。
とても気の強い女だったら、「冗談じゃないわよ。行くんだったらあんた一人で行けばいいわ」と、断固同行を拒むかもしれないし、ことさら従順な女ならば、不平一つ口にせず、黙々と夫の言われるままにどこまでもついていき、夫が望むだけの子どもを産むのだろうか。
いやいや、亭主のほうだって、決して自分勝手に、自分一人の夢だけで、女房をブラジルまで引き連れてきたのではないだろう…、と思いたい。女房にうまいものをたらふく食わせたい。きれいな服を着せてやりたい。ブラジルに行けばその夢が叶う…、そういう想いが、亭主の胸の内にもあったのだと、信じたい。
それに近い感覚を、ボク自身も持っているんだな。
ボクは商才がないから、金のことではいつも苦労している。女房には楽な生活をさせてやりたいと思っているのだけど、現実には、かなりの辛抱を強いている。
女房がもう少し勝ち気な女だったら、ボクはとっくに女房から「棄民」されてたかもしれない。
いつかは女房に贅沢をさせてやりたい。けっこう、そういう想いが日々の原動力になっているってことは、あると思う。マジな話。
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- 2006/04/24(月) 23:52:54|
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“セカンドウィンド”という言葉を知ったのは、中学の体育の授業のときだった。
熱血体育教師は、「マラソンをしていると、途中でとても息苦しくなって棄権したくなる。でも、そこをぐっと耐えると、次の瞬間にはまるでさわやかな風(セカンドウィンド)が吹き抜けるような感じがして苦しさが消え、最後まで走り抜ける気がしてくる」…と説いたのだった。
だから途中で挫けたりせずに、セカンドウィンドが吹くことを信じて、最後の最後まで頑張るのだ、ということを熱血教師は言いたかったのだろう。
言われてみればそれは確かに分かるような感じがした。「ランナーズハイ」という概念も同じような意味合いなのかもしれないが、持久走をしていたり山登りをしていると、途中で耐えきれないほどに苦しくなり、だけどしばらく辛抱していると、その感覚も麻痺してきて(生理学的には、何か体内で分泌しているのかもしれない)、なかば陶酔感のような感覚を伴いながら、少しばかり足の運びも軽くなるのである。
してみると、失恋をした者にも、いつかセカンドウィンドが吹く瞬間が、やってくるのではないだろうか。
いろいろなものを失って、頭の中と心の中がぐじゃぐじゃになって、なんだか生きていることさえもつまらなく感じてしまうようになっても、ふと、そういったもやもやに、自分の心が整理をつけられるようになってくるような…。
まあ、そのためには、自分から無理して、忘れようとか気持ちを切り替えようとかはしないで、とことん落ちるところまで落ちていって、どん詰まりの閉塞感に突き当たってみるのも、悪くはないのかもしれない。
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- 2006/04/21(金) 01:21:23|
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小岩井農場で乳牛の牛舎を撮っていたら思い出した。
10年近くも昔、ボクは田舎の小さなビデオ制作会社でディレクターをしていた。
年に何本かはCMもつくっていた。
あるとき、温泉のCMをつくる話が舞い込んできて、モデルを手配しなければならなくなった。
タイミングのいいことに、うちのスタジオに出入りしていたナレーターが若い女性を連れてきて、「この人、素人なんだけど、テレビの仕事に興味があるというので、機会があったら使ってあげてください」、と言うのだ。
「ちょうどよかった。入浴シーンのあるCMなんだけど、平気ですか? もちろん、カラダはタオルで隠しててもいいですし、その下に水着をつけてもらっても構わないのだけど」
「ぜひお願いします!」目を輝かせて彼女は答えた。
確か、年齢は30そこそこ。独身。お母さんの経営する小料理屋を手伝っている人だった。
自分からこうやってチャンスをつくってくる人だから、気持ちが前向きな人なのだろう。ものごとの飲み込みも良く、あとになって短いテレビ番組のナレーションをお願いした時は、素人とは思えないソツのない仕事をしてくれた。
温泉の撮影というのは、スチールであれムービーであれ、けっこう大変なのだ。
短い時間で効率よく撮らなければならないし、レンズは湯気で曇るし、だらだら撮っているとモデルがのぼせてしまったりもする。
最初に打たせ湯を浴びているカットを撮り、次に湯船につかっているカットを撮るためにカメラや照明のセットをやり直し、それが済むまで彼女には待機してもらう。
その待機時間を使って、他のスタッフとは離れた場所でスタンバイしている彼女に歩み寄り、次のカットの説明をする。
立ったまま、はいはいと素直に説明を聞いている彼女のバスタオルがはらりとずれ落ち、片乳があらわになった。大きからず小さからず、こんもりとふくよかにふくらむ、好ましい印象を与える乳房だ。
説明はもうほとんど終わりかけていたので、すぐに彼女は後ろを向いて隣の部屋に移っていった。ボクも、これでもジェントルマンのつもりでいるので、バストを見たからといって大騒ぎもせず、ほとんど、何も見なかったという体(てい)で、何事もなかったように仕事に戻り、あとになってわざわざ他のスタッフに話すこともなかった。
ところが何日かして、スタッフの一人が少しスケベな目つきでボクに、「A子ちゃんのカタチチ見たんですって?」と聞いてくるのだ。
あちゃー、せっかくボクがオフレコにしていたのに、彼女のほうが自分から暴露していたみたいなのだ。
なんてあっけらかんとした気性なことか。あの乳房のように、とても好ましい印象の女性だ。
そのビデオ制作会社は今はもうないし、ボクも別の仕事をしているので、彼女との接点はほとんどあれっきりだったけれども、思い出しついでに自分の携帯のアドレス帳を開いてみたら、彼女の携帯番号がまだ残っていた。
意味もなく、少しドキドキしている。
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- 2006/04/20(木) 00:29:07|
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自分は、愛したいのか愛されたいのか、まずその点を、はっきりさせておくべきだ。
愛についての不平の多くは、「自分には愛される権利があるのに、十分に愛され尽くしていない」というような不平、であるような気がする。
一生を、誰かに愛されながら生きていきたい、と固く決めた人はそれでもいいけど、愛はたぶん本当は、“愛される”ということよりも、“愛する”ということのほうが、ずっと難しいし、ずっと崇高だし、ずっと歓びになるのだ。
愛してもらえなかったことをずっと引きずって生きていくよりなら、たとえ最後には恋人が離れていったとしても、愛し切ったという確信があるのなら、それは必ず、心の財産になる。
自分の中で、人を愛するスキルが、使いそびれて錆び付いていないか、一度点検してみることだ。
- 小岩井農場 -
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- 2006/04/19(水) 00:30:12|
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同じスイッチを、ちょこんとONにするだけなのに、まったく正反対の作動をするものがある。
たとえばそれは、女性のおっぱいである。
赤の他人や特別な好意を抱いていない男性におっぱいを触られるのは、絶対に受け入れられないことだし、不快に感じることだし、憤りすら感じることだ。こういう女性の感覚は、法的にも理解されていて、訴えることすら出来るわけだ。
その一方で、同じおっぱいでありながら、“特別な好意”のある男性からだと、むしろ、ぜひ触れてほしいと願ったり、触れられたときには、ことさら甘美な電気が、女性の全身を駆け抜けるわけである。
オトコはしばしば女性のおっぱいに触りたがるけれども、その多くは、女性のカラダに甘美な電気を走らせるためのスイッチとしては、おっぱいを認識していない。
むしろ、おっぱいに触れたおのれの手のひらがスイッチになって、オトコの全身に電気を走らせるためのものとしか、おっぱいというものの存在意義をとらえていない。
おっぱいは誰でも簡単に触れるけれども(あとから訴えられるのも覚悟の上であれば)、ちゃんと本来のスイッチの機能を引き出すためには、男の側にも、ある程度の“資格”のようなものは必要なのかもしれない。
家庭内のちょっとした電気配線だったら素人でも出来るけど、やはりちゃんとした電気工事士にやってもらったほうが安心なのと同じだ。(そうかぁ?)
昨日は甥っ子の結婚式があって、津島は一日中飲んでいた。
ホテルでの披露宴から一旦帰宅して、普段着に着替えてから義兄の家に集まって、また酒盛りの続きをするわけだ。
三々五々、親戚がやってきてはひとしきり飲み騒いで帰っていく。
この中に、津島によくなついている姪っ子の姉妹がいて、津島とは親子ほども歳が違うのだけれども、盆正月に顔を合わせると、手相占いだのなんだとお互いに手を触りまくったり、指圧だのなんだのと足の裏を強く押してひいひい言わせて遊んだりしているのである。
昨夜も、姪っ子姉妹が一足先に帰るというので、まだ酒を飲んでいた津島も一応玄関まで見送りに出た。
狭い玄関でうろちょろしているうちに、思わず津島は、姪っ子の妹のほうのおっぱいにTシャツの上から触ってしまった。「うわ、セクハラだ!」とか声を上げて、姪っ子は両手で胸を覆う仕草をした。
意識的に触ったつもりではなかったのだけど、若い娘の胸を触ってしまったことには変わりはないわけで、「いや、あの、その…」としどろもどろになっているうちに、姪っ子は、たっぷりとした津島の腹(並の女性の微乳よりは、よほどふくよかで触り甲斐がある)をぷにぷにとつまんだ。よし、これでおあいこだ。
いつものように、ハイタッチして帰っていったので、姪っ子もそんなには機嫌を損ねているわけでもなさそうだ。
津島はこれでもけっこう“気にしい”なので、ハプニングとはいえ、姪っ子の胸を触ってしまったことを、酔いがさめてからも少し気にしているのである。
今度会った時はどうやってご機嫌をとろうかと。
おっぱいって、罪つくり…
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- 2006/04/17(月) 00:31:07|
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ボクの女友だちの一人には、子供が二人いるのだが、どちらも女の子だった。
結婚も出来たし子供も出来たけれども、男の子を産んで育てる…ということは、彼女には出来なかった。
ただ、そのことはたぶん彼女にとって、「自分の人生で唯一果たせなかったこと」…というような、切実な未練ではないだろう。
一度きりの人の人生というものは、夢を持って生きるのはいいけれども、なかなか思い通りにはいかないものだ。
子供が欲しくてもどうしても出来ずに、しまいには諦めて、夫婦二人きりで生きていく覚悟をつけた人も知っている。
子供がいる人よりも子供がいない人のほうが不幸か?
子供がいなくても結婚出来たのであれば、結婚出来なかった人のほうが不幸か?
しかし、そんな後ろ向きな考え方をするために、人は生まれてきたのではないと思う。
生まれてきたのにも、何かの運命を背負って生きていくのにも、そして死んでいくのにも、きっと意味があるのだ。
その意味を見つけた人、見つけられそうな人、必ず見つけてやりたいと思っている人…、そういう生き方が出来る人は、きっとみんな幸せなんだと思う。
夢は必ず何でも叶えられるものではないけれども、手を伸ばしてもぎ取れる果実ならば、思い切って手を伸ばしてみる度胸は、あったほうがいい。
二人の女の子のお母さんにも、そんな、手を伸ばしてみる度胸はあった。ボクの知る限りでは…。
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- 2006/04/15(土) 00:55:31|
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不思議に、ショックではなかった。
「ほう」…と小さく嘆声をあげて、少し心躍るニュースに触れたような、心持ちであった。
妻の鏡台の上に無造作に置かれた封筒。
封が切られて、一葉の写真の端が覗いている。
うん? なんの写真だ?
封筒の置かれた場所からすると、見られて困るものでもないだろう。(ほんとうは、たまたま仕舞い忘れたもののようだったが)
妻だ。
少しはにかんだような、薄い笑みを浮かべた妻の写真だ。
背景からすると、撮った場所は一目瞭然、市内の城跡公園だ。
しかし待てよ、この、ちょっとなまめかしいような妻の笑顔は、同性に見せるものとは違うな。
奥様連中で散歩して、そのついでに撮った写真ではなさそうだ。
封筒をひっくり返してみる。
住所と、名字だけの差出人の名前。
名字だけにしたのは、差出人が男であることはぼかすためだったのだろうが、これは男の字だ。
さて、どうしたものか。中の手紙まで読んでしまっていいものか。
信書である。夫婦といえども、連れ合いに届いた手紙は勝手に見たりはしないのが礼儀だ。
まあ、しかし、“見なかったこと”にすればいいのだから、失礼して、ちょっと見させてもらう。
先日はおつきあいいただきましてありがとうございました。
とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
記念に撮らせてもらった貴女の写真がとても魅力的に撮れていたので同封します。
次にお逢い出来るのはいつになるか分かりませんが、どうぞお元気でお過ごしください。
ほうほう、これはいわゆる、“しのび逢い”ってやつかな?
はじめにも述べたように、これを読んでもボクは、ショックでもなかったし、憎悪の念のようなものが沸き立つこともなかった。
へえ、我が愚妻がねえ…。あいつにも、こんな秘密の引き出しがあったのだなあ。
なんだか却って一層、けなげな妻が愛おしく感じられたのだ。
妻は、長く結婚生活を送った女にありがちなガサツなところがなく、むしろ、申し分がないくらいに夫のボクに良くしてくれる。
彼女は、この結婚には大きな不満はないはずだ。
言ってみれば、ボクだって、たたけば埃の出る男である。それを知ってか知らずか、妻はまったくのほほんと呑気に結婚生活を楽しんでいる。
もし、妻がどうしてもこの結婚生活に窒息寸前だというのなら、ボクはそれを察して何か妻のために、してやらなければならないこともあるのだろうが、今現実にボクがやるべきことは、封筒の存在にも気づかなかったし、写真も見なかったし、手紙も読まなかったし、まったくなんにも知らないでいる、ということにしておくことだろう。
妻が何かで困っているのなら、ボクは彼女を救ってやらなければならないけど、妻が幸せであるのならば、ボクがすべきことは、それを邪魔しないことだ。
夜になって布団に入ると、やっぱりいつものように、すうっとボクにカラダをすり寄せて、静かな寝息を立てる妻だ。
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- 2006/04/14(金) 01:14:27|
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毎日新聞に、奥さんに浮気された中年男性の人生相談の記事が載っていた。
…と言っても、うちでは毎日新聞はとってなくて、ネットの同紙のサイトで見たのだけど。
かいつまんで紹介すると、
奥さんがたまたま携帯電話を家に置き忘れて出かけていき、そこにメールが入り、旦那さんが何げなくそのメールを開くと、奥さんが密かに逢っている男性からのメールだった…と。
旦那さんが奥さんにそのことを問い質すと、奥さんはあっけなく浮気を認め、浮気に走った理由をいくつか並べたのだけど、旦那さんはさっぱり理解できなかった。翌日、旦那さんは奥さんに離婚届を突きつけたのだけど、奥さんは離婚を拒んだうんぬんかんぬん…。
浮気なんてするわけがないと、信じきっていた人が浮気をするわけだから、それは青天の霹靂、混乱してパニックになって怒りが爆発するのも当然だと思う。
でも、津島的に思うのは、“浮気なんてするわけがない”という思い込み自体が、そもそも甘いのではないかと。
確かに、世の中、浮気に走らない人のほうが圧倒的に多いかもしれないけど、でもそれは、これっぽっちも浮気の萌芽を内包していないということではない、と思うのだ。敷居の手前まで行って、その敷居を跨ぐか跨ぐまいか、さんざん思案して、すんでのところで踏みとどまった…というケースも少なくないのではないだろうか。敷居の前でちょっとバランスを崩してしまったり、何かが背中を押してしまったら、よろよろといつの間にか敷居を跨いでしまうのだ。
考えてみれば、なんの不都合もない結婚生活を営んでいても、テレビに出てくる俳優や女優に、本気の恋心のような感情を持ってしまうことだってある。もしそれが、俳優や女優ではなく、手を伸ばせば届く距離にいる人だとしたら、恋情は一気に現実のものになっていく。
結婚しているかいないかにかかわらず、きっと人は、いつも何かに恋をしているのだ。配偶者を嫌いになってしまったわけでなくても、配偶者以外の人を、ちょっと好きになってしまうことだってあるのだ。
だから、“浮気なんてするわけがない”などと妄信するのではなく、むしろ、“ちょっと目を離すと、連れ合いは別のところを向いている”ってことになりかねないと、銘じるべきだろう。
もし、改めてちゃんと深い愛を注いであげられれば、少しくらい寄り道されても、きっとここに戻ってきてくれるのではないだろうか。
浮気をした人を責めて罪を償わせようとするよりも、どうしたら「やっぱりあなたが一番好き!」って言わせられるかを考えるほうが、人生、収穫が大きいように思うのだけど、いかがだろうか。
愛が、試されているのだ。
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- 2006/04/13(木) 00:46:23|
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人の何度めかの恋は、しばしば、かつての恋の反すうになる。
ここには、あの人とも来たことがある…とか、
これは、あの人とも食べたことがある…とか、
この映画は、あの人と一緒に観た映画…とか、
こうやって、あの人に抱いてもらった…とか。
今の恋が十分に楽しくて幸せでも、ときどき、消したはずの古い恋の記憶が、蘇ってくる。
新しい人に抱かれながら、一人でそっと、かつての恋の反すうをしている。
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- 2006/04/11(火) 00:10:06|
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とっくにお気づきの方もおられるだろうが、ボクの“津島”というペンネームは、小説家太宰治の本名から拝借したものだ。
心酔…とまでは言わないけれども、太宰はボクにとって、とても親しみを覚える存在だ。
ネット上に「青空文庫」というサイトがあり、著作権が消滅した作品を中心に、多くの文芸作品をネット上で読める仕組みが出来ている。太宰の文章も200作品余りを読むことが出来る。
特に太宰には興味がなく、あるいは、どちらかというと好きではないという人は、心中未遂事件を起こしたり、情人を身ごもらせたり、情死事件を起こしたりといった、彼の不甲斐ない生き様が引っかかるのではないだろうか。少しは彼に惹かれるボクでも、さすがにそこまでは彼の真似は出来ない。デカダンスではなく、できればもう少しポジティブで朗らかで楽しい人生を送りたいものだと思っているのだ。
しかし、なかなか人生が浮上しないんだよなあ。
こういう焦燥感は、太宰にもあったのかなあ。
太宰の奥さんの津島美知子さんが平成9年に亡くなったときの課税遺産額は約9億4千万円だった。
すごい金額だ。それは言わば、太宰が家族のために遺した金額である、とも言える。
すごいよなあ、なんだかんだ言って、それだけの資産を家族に遺せるんだものなあ。
せめてボクも、「父ちゃんは先に死んじゃったけど、まあこれだけ金を遺してくれたからオッケーってことにしようか」とか、「結婚する気もないくせにあたしに子供を生ませたけど、食うには困らないくらいの金を遺してくれたからオッケーってことにしようか」くらいは言ってもらえるオトコになりたいもんだ。
金で愛は買えないけど、金が少なすぎると人の気持ちにゆとりがなくなる。
何億だのって金は遺せないにしても、みんなニコニコして暮らしていけるだけの心のゆとりは、つくってやりたいなあ。
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- 2006/04/10(月) 00:28:32|
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うちのニョウボウは、田舎の子だくさんの家の末っ子に生まれた。
彼女の上には、実に7人もの姉や兄がいるのだ。
ボクは妹が一人だけの二人兄妹の家で育ったので、結婚したとたんに、義姉や義兄、その連れ合いと、いちどきに13人も、「兄さん姉さん」と呼ばなければならない人が出来てしまったのには面食らった。名前を覚えるだけでも大変だ。
“13人”と端数なのは、一番上の姉が生涯独身で通したからだ。田舎の貧しい農家で、妹や弟たちをちゃんと学校にあげてやるためにも、長姉は親を助けてひたすら働き続けなければならなかった。働き通している間に婚期を逃してしまったのか、あるいは、自らの意志で結婚よりも仕事を選んだのかは分からない。
何はともあれ、仕事に打ち込んだから会社でも出世して、退職後も悠々自適の生活を送れる程度に財をなして、毎年のようにともだちと連れ立って山に登ったり海外旅行を楽しんだりしていた。
長姉は都内の団地で一人暮らしをしていて、ボクら家族が上京した時など泊めてもらっていたのだが、最近はともかく、以前は、団地の中にクルマ一台分の駐車スペースを確保してあった。長姉自身は免許もクルマも持っていないのに、である。
そのことについては、ボクのニョウボウを含めて、誰も真相を知らないし言及もしないのだけれども、きっとあの頃は、長姉のところに通ってくる人がいたのだろうと、みんな、それとなく察していたのだ。
そういえば、ボクらが泊めてもらった時も、「よかったらこれ、使って」と、男物のパジャマを勧められたこともある。
弟や妹たちのために働き詰めの人生だったけれども、時には長姉自身も、誰かに優しく包まれることはあったのだろう。
一人で生きる人生をむやみに寂しがらず、自分でちゃんと帳尻を合わせて、充実した日々を送れる聡明な女性だ。
- 東京上野 旧岩崎邸 -
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- 2006/04/09(日) 01:46:11|
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思えば、挫折続きの人生だったなあ。
決して、短気な人間のつもりはないのだけど、せっかく入った会社を短い期間で辞めてしまったり、何かを手がけても長続きしなかったり、どうもボクは、一つのことに腰を据えて取り組むということが出来ない。ボク一人の問題ではないのかもしれないのだ。長期間にわたる仕事の話を持ちかけられて、今度こそ本気で取り組もうと思っていても、いつの間にかそのプロジェクトが立ち消えになってしまったりする。
「さ、温泉に入ってあったまるぞ!」と、脱衣所で素っ裸になって、勇躍、浴室に向かうと、湯船に湯が張ってない…、そんな気分だ。
実は、今も挫折の真っ最中だ。
去年の暮れに、あるレギュラーの仕事の話があって、やりがいのありそうな仕事だったので、当面はその仕事に時間を割くシフトを組んだら、一度も成果品を出さないうちに立ち消えになってしまった。
天中殺?
祟り?
お祓いでも受けたほうがいいんだろうか…
モノゴトが長続きしないといっても、結婚生活はもう20年以上になるし、女友だちが出来てもけっこう長いつきあいになるので、なんでもかんでも長続きしないというわけでもないんだけどな。
(異性関係だけ長続きしてもなあ…)
それと同時に、これまでの人生はまんざらでもなかった、という思いもあって、いつ死んでも悔いはない、のである。
世をはかなんで死に急ぐのではなく、“十分に人生を楽しめたから、あとはいつお迎えが来てもウエルカムだよ”…って感じ。
カメラマンの中には、ヘリコプターなんかでの空撮の仕事があると、万が一のことを想像してしまって尻込みしてしまうやつもいるのだけど、ボクは大歓迎だ。「その時はその時だし」と思っているので。実際、ビデオ制作会社に勤務していた頃、空撮の話があったときに、カメラマンがビビってしまい、ディレクターだったボクが、「ったく、しょうがないなあ」とか言いながら、内心嬉々として、自分でヘリに乗り込んでカメラを回したこともある。
「オレはいつ死んでもいいのだ」…と吹聴していると、女友だちの中には、「あなたが今死んだら、泣くオンナがたくさんいるでしょう」なんて言ってくる人もいる。
その言葉の大部分は揶揄であったり社交辞令であったりすると思うのだけど、ただ、実際問題、男女を問わずほとんど友だちがいなかった若い頃と比べて、今はけっこう知己が多い。そのほとんどは、インターネット生活を始めてからネットを通して知り合った友人なのだけど、やはり今ボクに万が一のことがあったら、泣いてくれるかどうかはともかく、一瞬言葉を失う人は何人かいるかもしれない。というか、それ以前に、気持ちが萎えた時など、愚痴を聞いてくれる友人がいるということで、今までどれだけ気持ちが救われたことか。昔だったら、励ましたり慰めたりしてくれる人もなく、全部一人で抱え込まなければならなかったから、今よりずっと辛かった。
自分一人の自分ではなく、“あいつのため、あいつらのためにも、もうちょっと頑張らなきゃ”…という気にさせられるのは、幸いなことかもしれない。
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- 2006/04/08(土) 01:39:11|
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ボクは、取材でしばしば温泉に泊まる。
泊まりながら写真を撮ったり、見聞したことを文章にする仕事をしている。
普通の旅行客であれば、温泉に泊まるというのは最高の息抜きのひとときだろうが、こちらは、泊まる事自体が仕事なわけだから、あまり息抜きも出来ず、帰ってくるとぐったりするのである。
そんな中で、旅先でささやかな出会いをすることもある。
秋田県男鹿半島の温泉ホテルに泊まった時、いつもの取材のパターンで、夕食時に料理を出してもらって、まずそれを写真に撮って、撮り終わったらそれを自分自身の食事にする。つくり直しましょうか?とか、温め直しましょうか?と言ってもらうこともあるけれども、贅沢をするために来ているわけではないので、たいていは、軽く辞退してさめてしまったものを口に運んだりする。
この宿で担当してくれた仲居さんは、料理を運んできたり、料理について説明してくれたりしたが、料理を撮り終わって、あとはプライベートに食べるだけになっても、なかなかボクのそばを離れず、なぜか、ずるずるとそのあたりにいる。「ああ、きっとこの人は、ボクに話し相手になってほしいのだ」と、ボクは直感する。
ホール係として、職務上、客が食べ終わるまで給仕する、というのではなく、一人の素(す)の人間として、おしゃべりをしたい気分のようであった。そうであるならば、こちらも話し相手になるのはやぶさかではない。
「ちょっと感じたんだけどね、この刺身醤油、少し濃すぎるんじゃないですか? 刺身本来の味に勝ち過ぎてるように思うんだけど」
「そうでしょ! あたしもそう思うんです。ここの料理長の味付けは、なんでもちょっと濃いめなんですよ」
普通、客と仲居のあいだではこんなやり取りはしないものだが、彼女も素の気分でいるものだから、ボクにつられて本音炸裂だ。
なんとはなしに身の上話になってしまったが、彼女は東京の出身なのだと言う。ボクはTPOで標準語と秋田弁を使い分けているが、仕事の時はたいてい標準語なので、彼女は、標準語をしゃべるボクに、懐かしさのようなものを覚えたらしい。彼女にとっては、標準語が“お国言葉”なのだ。周りのほとんどがズーズー弁しかしゃべらないという異郷のような土地にいたら、久しぶりにやって来た標準語をしゃべる人間には、彼女は親しみを覚えないわけにはいかなかったのだろう。
「その東京育ちのあなたが、なぜこんなところに?」
「東京でOLをしていたときに、調理師をしていた今の主人と結婚したんですが、主人はこっちのほうの人で、親が歳をとったものだから田舎に帰ることになり、それでついてきたってわけです」
彼女の言葉や表情からは、辛いとか寂しいとかいったニュアンスは感じられなかったから、きっと、優しい旦那さんに愛されて、幸せな日々を過ごしているのだろう。
まさか東京から秋田にやって来て温泉で仲居をすることになろうとは、彼女自身、結婚前は思いもしなかっただろうが、そんな、想定外の人生であっても、彼女は彼女なりに受け入れて生きているのだろうと、ボクには思われた。
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- 2006/04/07(金) 02:01:11|
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「もしもし、津島さんですか? ◯◯町の△△です」
からからと、さっぱりした感じの声の女性だった。
ボクはすぐにはその△△という名前を思い出せなかった。声も名前も、まるで聞き覚えがなかった。
一拍おいて、やっと気づいた。昔少しだけ友だちづきあいをした男性の奥さんだ。
「あー、ごめんなさい。思い出しました。△△さんの奥さんですね。ご無沙汰してます。お元気でしたか?」
彼女は、相変わらずからっとした調子で、こう応じる。
「実は、主人が亡くなりまして…」
「えっ?!」 ボクは思わず息をのむ。
突然倒れて、入院して4日ほどで息を引き取ったのだという。
ボクよりは何才か若いはずだった△△氏とは、10年あまり前にちょっとしたきっかけで知り合った。友だちづきあいをしていた期間は短かったが、あるとき、女性を連れてボクのところにやってきて、この人と結婚することにしたのだけど結婚式はあげないで写真だけで済ますつもりなのでその写真を撮ってもらえないか、と切り出した。
喜んで引き受けたいところだけれども、ボクは婚礼写真撮影の経験も技術もないので、スタジオを持っている友人のカメラマンのところに連れて行って、そこで二人の結婚写真を撮った。
「背広を着ることのなかった人なので、少し若いんですけど、あの時撮ってもらった写真を遺影に使わせてもらったんです」
そういうことであったから、とむらいも一通り済んで、ボクに報告の電話だったのだ。
天寿を全うするような死に方ならあきらめもつくが、早世はやはり辛い。
しかし、彼女の、からりとした声の調子はどこから来るのだろうか。
泣くだけ泣いたあとの、いつまでもめそめそしていてもはじまらない、という思いなのか。
短かったけれども満ち足りた時間を過ごせたという、悔いのなさなのか。
もともととても強いヒトだったのか。
いつでもまた声をかけてください。あなたもどうぞお元気で。そう言って、受話器を置いた。
- 秋田県仙北市西木 -
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- 2006/04/06(木) 01:18:25|
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「そうか、オレは間違ってたぞ!」…と、膝を打ってハタと気づくことがある。
たとえば、いつの間にか少し縁遠くなりかけているヒトがいたとして、最近のそのヒトの冷ややかに感じられる態度を寂しく思い、心変わりを恨んだりもする。ちょっと前まではあんなに愛し合っていた仲なのに…と。それでもって、自分としてはどうしてもそのヒトとのことを諦めきれず、「一度でいいから逢ってほしい」と懇願してみたり、「なんで最近の君はそんなに冷たいんだ?」などと詰問したりしてしまいがち。
たぶん、そういう心の動きが、すでにダメなんだ。
立場を逆転させて考えてみれば分かりやすい。
少しトキメカナクなりかけている相手から、「最近のあなたは冷たいわね」などと言われたら、僕の気持ちはかえって一層冷めていってしまうのではないだろうか。
振られそうになったとき、捨てられそうになったときに、相手を責めちゃいけないんだ。責めてしまったら、よけいに相手は離れていくだけだ。かといって、自分自身を責めるのも、たぶん間違い。「みんなあたしがいけないんだわ」などと、聞こえるような聞こえないような言い方をしたって、そんなネクラな感じの人からは、やはり相手は離れていきたくなってしまう。
たとえばこういうことだ。
新車で売り出されて人気のよかったクルマも、時が過ぎると売り上げが頭打ちになってくる。
そうするとメーカーは、あちこちちょこちょこいじって(あるいは、評判の悪かったところを改良して)マイナーチェンジして、また颯爽と売り出しにかかる。
振られかけたり捨てられかけたりしている自分という存在は、言わば、市場で人気が落ちてきたクルマみたいなものだから、どこかブラッシュアップをして、自信を持って市場に再投入するくらいの意気込みでなければならない。
メソメソしたりネチネチしたりせず、一層軽やかに朗らかに華やかにしていて、「やっぱ、自分がスキなのはこのヒトなのだ」と、相手に思わせるくらいの輝きを、失わずにいたい。
失恋したり、失恋しかけたりしていても、どよ〜んとせず、keep positive mindでいることだ。そうすれば、一つや二つの恋は失っても、すぐに新しい恋に出会える。
…というようなことに、ボクは今夜、レモン果汁割りの焼酎で晩酌しながら、ハタと気づいたわけだ。
さしあたり、失いかけている恋に怯えている…というわけではないけれども、ここまで気づいてしまったら、これでいつ失恋してもちっとも寂しくないぞ、なんて思ったりしたわけだ。
やせ我慢? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
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- 2006/04/05(水) 01:50:21|
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以前はけっこう頻繁に逢っていたが、最近は少し、逢うことを休んでいる女友だちがいる。
「逢わないか」と声をかけられればこちらも悪い気はしないから、のこのこと出かけていくのだけど、なんだかそれがいつの間にかお互いの間で“当たり前”のことのようになってしまって、逆にそれがボクには少し違和感になっていったのだ。
のべつ逢ってないと、二人の関係は維持できないのか?…と。
ボクは、一度女性となじむと、けっこう長いつきあいになることが多い。(短い時もあるけど)
長いといっても、その間ずっと頻繁に逢っているわけではなく、むしろ、逢わないでいる時間、忘れている時間のほうが多かったりするのだ。それでもなぜか、その人の中でボクとの“取引口座”が廃止にはなっていないと、実感できるのだ。
だから、何ヶ月も、あるいは一年以上もブランクがあってからでも、とても親しく再会でき、楽しいひとときを過ごすことが出来る。
あまり頻繁に逢っていると、なんだか、“逢うためにつきあっている”というような、本末転倒な気分になってくる。
男と女は、頻繁に頻繁に顔を突き合わせているよりも、少しあいだをあけて、自分の中に想いを貯めていって、その想いを手みやげにしながら、久しぶりに逢うくらいがちょうどいいのかもしれない。
そんなわけで、少し逢うのを休んでいた女友だちから、「相談がある」と電話が入った。(これはエイプリルフールではなくほんとの話)
彼女の相談事は、まあ、些細といえば些細なことだが、やはり自分一人では的確な判断を下す自信がなかったのだろう。
「ああ、それだったらねえ、これこれこういう風にしたほうがいいよ」ボクははっきり言ってやる。「大丈夫、そういう風にするのが一番だから」少し度胸をつけさせてやる。
たぶんそれで彼女はすっきりして、こちらのアドバイス通りにするだろう。
「どうもありがとね」と言って、彼女は電話を切った。
なんだか、別れた昔の女房が、少し困ったことがあって、癪だけど昔の亭主に相談してみることにして、昔の亭主は、別れた女房だけど困っているのなら捨て置けず、親身になって相談に乗ってやる…みたいな、そんな図式だった。
離婚した夫婦には、案外こういうパターンも少なくないのではないだろうか。一緒に暮らしている間はなんだか気持ちがすれ違ってばかりいたけど、別れてからのほうが、妙にコミュニケーションがスムーズにいく…みたいな。
男と女は、四六時中顔を突き合わせていないほうがいいのかも、しれない。
- 秋田市立体育館 -
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- 2006/04/04(火) 00:27:49|
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ボクは、洋画の恋愛映画がかなり好きである。(邦画は陳腐なのが多いから…)
既存の作品をくまなく観ているわけではないけれども、女房がTSUTAYAに行く時にはついていって、観てみたい恋愛映画のDVDを一本、ついでに借りてくる。
去年ニューヨークに行って、彼の地にとても惹かれたものだから、ニューヨークを舞台にした恋愛映画は、一通り観ておきたいと思っている。
男のくせに恋愛映画に夢中になるなんて女々しい…と思われるかもしれないけど、こういうことに関心を持つのは決して意味のないことではないと、ボクは思っている。
なぜならば、一組の男と女の仲は、“社会の最小単位”であって、いわば、社会生活を営むということの、基本中の基本だと思うのだ。訳の分からない何人もの人を相手にしているわけではなく、たった一人の人を相手にしているだけなのに、すごくうまくいったりうまくいかなかったりする…、最小単位ですらちっともうまくいかなかったりするのに、もっと大きな単位の社会をうまく回せるわけがないじゃん、…って。
言い換えれば、ものすごくビッグな仕事のプロジェクトをやり遂げるような力量を持っていたとしても、たった一人の恋人や奥さんとの仲をうまくやっていけないとしたら、ほんとうにそいつの人生は“イケテル”と言えるのか、と。
そんな意味で、恋愛をテーマにした映画って、一部のロマンチストだけのものと思われがちかもしれないけど、結構そこでは、人の人生の根幹が語られていることが少なくないように、ボクは思うのだ。
年に一度逢うか逢わないかという、とても悠長なスパンの女友だちが、ボクにはいる。
いつもワンパターンなデートじゃつまらないねと(どういうワンパターンかはともかく)、じゃあまず映画を観ることにしよう、ということになった。
ネットで調べたら、ちょっと面白そうなフランス映画をやっているようであった。
その映画のテーマは、いうなれば“行きずりの恋”。激しく燃えるわけでもなく、ブレーキのきかなくなったクルマのように暴走する恋でもなく、終わってしまって激しい喪失感に襲われるでもなく、さりとて、セックスプレイを楽しむだけのへらへらとしたラブゲームでもなく、「ああ、こういう男と女の出会いもあるかもね」…と、小さな小屋の小さなスクリーンを並んで観ている中年の男女は、ココロの中で少しニヤニヤしているのだ。
この映画とは別の話だけれど、トリュフォーの旧作に「隣の女」という不倫ものの作品がある。
ボクは20代の頃に最初にこの映画を観て「ふーん」とか「へー」とかいう“戯作を観ての感想”しか抱けなかったけれども、最近になってTSUTAYAから借りてきて観直すと、割り切って逢瀬を楽しんでいたはずの男女の間の歯車が、いつの間にか微妙に微妙に微妙にずれてきて、ついには破滅に向かっていくというプロット…、「うぬ、こういうことって絶対にありうるよな」と、とても生々しく、その映画の言わんとしていることが伝わってくるのだ。
ちゃんと恋をしなかった人は、こういう映画を観てもリアリティは伝わらない。
あ、いや、「生兵法なレンアイは怪我のもとだから手を出さないほうがいい」という、予防キャンペーンの意味はあるだろうけど。
“社会の最小単位”の映画を観終わった中年の男女は、なんだか一層“共犯者”の結束を固めて、クルマの免許の更新を終えた直後のような面持ちで、映画館を出てくるのである。
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- 2006/04/02(日) 23:38:05|
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“突然失礼します。ネット上で偶然〈津島さん〉というお名前を拝見しまして、もしかしたら私の存じ上げている津島さんではないかと、懐かしい思いで、不躾ながらメールさせていただきました”
…というメールが届いたのは去年の晩秋の頃だった。
メールの送り主は、N子。
N子! なんて懐かしい名前!
まぎれもなく、20年近く昔に、わずかのあいだ、なじみ合った間柄の女性だ。
メールが届くまでは、すっかり彼女の名前は忘れていた。
お互い惹かれ合ってはいたはずなのだが、特別な強い縁(えにし)はなかったのか、自然消滅のようなかたちで、比較的短い期間で、二人の関係は終わっていた。
ネット上の偶然の再会から、ボクたちは“メル友”として、ときどき他愛のないメールをやり取りするようになっていた。
どんな事情があったのかは知らないが、今は、高校生の娘との二人暮らしのようであった。
そんなN子から、「折り入って相談があるのだけど電話をしてもいいか」というメールが入ったのは、3月上旬ころであった。
「いやあ、懐かしいねえ。元気そうでなによりだよ。それで、相談って?」
「実は、娘が今年高校卒業で、卒業旅行に東北方面に行きたいって言ってるんです」
「へえ、もうそういう歳になったんだ。おめでとう」
「それで、実は娘、ほんとうは、東北方面というより、あなたに会いに行きたいっていってるんです」
「オレに? なんでオレに? いや、きみの娘なら大歓迎だけどさ」
「あの、いつかは分かってしまうことだと思うので、今ここでお伝えしますけど、ごめんなさい、あの子、あなたの子供なんです」
おいおいおいおい、悪い冗談はよしてくれよ…と言いかけたけれども、冗談だとしたらあまりにも趣味が悪すぎる。それに、N子の声のトーンは、冗談を言ってボクをからかおうとしているとは思われなかった。
高校を卒業する18歳の娘…、ボクはN子を妊娠させた覚えはないのだが、二人がなじみ合った時期を振り返ってみると、計算上はありえないことではない。
N子の話によれば、別れてしばらくしてから妊娠に気づいたのだそうだ。どうしたものかと迷っているうちに時間だけが過ぎていってしまって、最後には、一人で生んで一人で育てていこうと決心したのだとか。
N子の話を聞きながら、ボクは次第にいらだちを覚え始めていた。今頃になって厄介な話を持ち込んできて…ということではなく、なぜ今までボクに知らせずN子が一人で背負い込んできたのか、といういらだち。
あるいは、20年近くも、何も知らずにのほほんと生きてきたボク自身へのいらだちか。
「娘には、父親のことはなるべく考えさせないようにしていたんです。でも、高校を卒業して大学進学が決まった今年になって、どうしても父親のことを知っておきたいと言い出して、それで、つい、あなたのことを…。ほんとうにごめんなさい」
「いやいや、きみが謝ることじゃない。むしろ、謝らなければならないのはボクのほうだ。ほんとうに何も知らなくて…」
N子の、いや、ボクの娘は、N子の話に納得して、頭では納得したけれども、生きているのであれば、一度は自分の父という人に会っておきたい…と思ったのだそうだ。
「分かった。娘に会おう。むしろ、オレからもお願いしたい。オレは今、田舎でぱっとしない人生を送ってるから、特別なことは何も出来ないけど、必要なことはなんでもするよ。とにかく、娘を、オレのところによこしてくれ」
その日の秋田空港上空は、この季節には珍しい、雲一つない青空。
その青空の彼方から、陽炎に揺れて小さな小さな機影。
あの飛行機に、ボクのDNAを継ぐ者が乗っている…、18年めの春だ。
…という、今日のお話は、ウ、ソ、ですけどね。
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- 2006/04/01(土) 00:00:00|
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