
こういう時代だから、女の人とデートした日の最後は、たいてい、メールでしめくくられる。
たとえば、「今日はどうもでした。ちょっと穏やかな気分になれたひとときでした」なんていうメールが届く。
「癒してあげたい」とか、「ココロを解きほぐしてあげたい」とか、大上段に構えてデートに赴くわけじゃないけれども、相手もリラックスして過ごせたということがメールの文面から伝わってくると、「ああ、今日はお互いにとっていい一日だったのだなあ」と、思う。
少し歳をとったからそう思うのかもしれないけれど、デートは、ときめくというよりも、ほわんとしたココロモチで過ごせるほうがいい。
冷めやらぬ興奮、ではなく、いつにない安らかな気持ちで眠りにつける、そんなデートの一日の終わり。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/31(金) 00:59:58|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

結婚して何年か何十年か相方と一緒の生活をしてきた皆さんは、「地球上には溢れかえるほど異性がいるのに、なんで自分はこのヒトと生きることを選んだのだろう」なんて、思ったことはないですか?
もしかしたら、もっといいヒトは他にいたかもしれないのにね。絶対にこのヒトでなければダメなんだというのであれば、アンドロギュノスのように、のべつデレデレとひっついていればいいのに、カリカリといがみ合ってばかりいたり、冷めきってしまって冷え冷えとした日々を過ごしてみたり…。
もちろん、中には、やはりこの人ではなかったんだと、はっきり気づいて白紙に戻す人たちもいるだろうし、はっきり気づいてはいても人生をやり直す気力もなくずるずると一緒の人生を歩む人たちもいるのだろうけど。
ボク自身は、どうせ一緒に暮らし始めているのだから少しでも楽しい日々にしよう、という考えでいるから、今はあまり迷うこともないけれど。…というか、もしかヨメがボクではない他の男と結婚していたら、彼女の人生はもっと安泰でハッピーであったかもしれないと思うと、こんな甲斐性なしの男と一緒になってしまった彼女が哀れで…(^^;
今の結婚生活は結婚生活として、これだけ地球上には異性が溢れかえっているのだから、もしかしたら他“にも”、不思議な縁(えにし)のようなもので結ばれている異性はいるのかもしれない。いてもおかしくない。
だとすれば、この先でまた幸せな恋愛ができるかもしれない可能性は、とりあえず否定しないでおいたほうがいい。(プラトニックで終わるかフィジカルに進むかはともかく)
そのほうが、今の結婚生活をただ鬱々とした気分で送っているよりは、精神衛生上、よほど健康的かもしれない。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/30(木) 02:16:52|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

あの恋は今にして思えば、あの人がちょうどココロに風邪をひいてしまって、それを治してくれる医者をさがしていたようなものだったのかもしれない。
治してくれる医者であれば誰でもよかった、ということはないだろうが、たまたまボクがそこに居合わせて、「よかったらボクに診させてもらえないだろうか」と、申し出たようなもの。
彼女のココロの風邪を完治させるまでには、しばらく“通院(あるいは、往診)”してもらわなければならなかったが、それでもみるみる彼女は元気になっていったのだ。
もうボクのところには顔を見せないから、彼女はしっかり快癒したのだろう。
もう治った、ということ。“医者”がいらなくなった、ということだから、それは喜ばしいことなのかもしれない。
だけれでも、患者に恋をしてしまった医者のように、通ってこなくなってしまった人に今さらながら追慕している自分なのだ。
こんなことになるのなら、あまり効かない薬を渡し続けて、少しでも長く通わせるようにすればよかったものを。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/29(水) 02:03:14|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

その夜のボクたちは、きっとすごく楽しかったのだろう。
普段であれば、少しくらい酒を飲み過ぎても、ふらふらになりながら、その夜のうちに家に帰り着いているのだ。
店を出てからベッドに入るまでのあいだの記憶が完全に抜け落ちていても、とにかく無事に家に辿り着いていて、ちゃんと玄関の鍵をかけて寝ているのだ。
だけれども、あの夜だけは、不覚にも、夜のうちに家に辿り着けなかった。
店を出る頃には、ボクも彼女も、もうまっすぐ歩けないくらいに深酔いしていたのだ。
途中、少し彼女をおぶったような記憶がうっすらとあるのだけれど、それが、ふざけっこでしたことなのか、ほんとに彼女が歩けなくなってしかたなくおぶったのかは、覚えていない。
場末の小さな居酒屋の小上がりで、きっとボクたちはとても楽しく酔い語らい、ついつい深酒をしてしまったのだろう。
ボクもべろべろだったけれども、彼女の酔い方もひどかったので、とりあえず引きずるように彼女のアパートまで送っていって、部屋に入って布団を敷いてやって、彼女を寝かしつけて、それからボクは家に帰る…と。ところがだ、布団を敷いてやって…のあとの記憶が、ぷつりと途絶えるのだ。
気がつくとボクは、ボクのではない布団の上につっぷして寝ていた。うん?ここはどこだ? ぼーっとしながら首をもたげると、すぐ隣には同じように服をきたまま布団の上につっぷして寝ている女!
うわっ、なんだこりゃ!
すぐには事態が飲み込めなかったけれども、どうやらボクたちは、布団を敷き終わったとたんに、電池が切れたようにその布団の上で爆睡モードに突入してしまったようだった。
まずい!
基本的にボクは小心者なのである。女の部屋に泊まって朝帰りするなどという大胆不敵な真似はできない。何時なのだ? いけない、もう夜が明け始めているじゃないか。「すまない。寝込んでしまったみたいだ。今から帰るから、きみはこのまま寝ててくれ」慌ててアパートを出る。空は白み始めている。大通りに出たら、タクシーの営業所があって、やっと始業の準備が始まったところのようだった。一刻も早く家に帰り着きたい。「すみません。いいですか?」早朝の不意の客に怪訝な顔をされながら、頼み込むようにしてタクシーに乗り込み、まだ家族が起き出す前の家にかろうじて滑り込みセーフだ。
気づかれないよう、ばれないよう、そぉっとそぉっと、ベッドにもぐりこむ。
朝になって家人が目覚めて、「あら、帰ってたの。夕べは遅かったみたいね」。
「う、うん、少し飲み過ぎてしまった」。
くれぐれも繰り返す。“女の部屋に泊まって朝帰り”をしたのではない。でも、限りなくそれに近いことをやらかしてしまったわけで、ひどくばつの悪い思いをしながら、公式記録上は、「明け方近くまで飲んでいた一夜」ということに、してあるのである。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/28(火) 01:43:22|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4

20代で独身のU子は、30代の職場の男性同僚とささやかな恋を楽しんでいた。
男性には家庭があったが、このようなカップルが人知れずささやかな恋を楽しむというのは、さほど珍しいことでもないだろう。
もちろん、U子自身は、その二人の関係をとても割り切っていた。彼の家庭を壊したいとも思わないし、いつかは彼を自分だけのものにしたいと考えていたわけでもなかった。
家庭のある彼が自分のほうも向いてくれている…そのことにちょっとした優越感のようなものさえ感じながらの、ささやかな恋だった。
届け物があって彼の妻が職場を訪れた時も、まったくうろたえることもなく、優越感に近い気分で平然としていられたのだ。
その彼の妻が妊娠して、それを彼から報された時、それまであんなに平然と割り切ってささやかな恋を楽しんでいたU子の情緒が、激しく乱れた。
彼と妻はまだ若かったから、子供ができるということなどは何も特別なことではないのだけれども、U子にしてみれば、自分というものがありながら平然と妻ともセックスをし、しかも妊娠までさせてしまうという彼の気持ちが、理解に苦しむのだった。非常に恨みがましい思いに押しつぶされる。
このことだけで言えば、U子の捉え方のほうが間違っている。
U子の立場では、彼の家庭が円満であることや、彼が妻と日常的にセックスしているであろうことも、すべて無条件に受け入れなければならないことなのだ。U子自身としてはそれは理解していたつもりであったし、そのあたりをきっちり割り切った上での彼とのささやかな恋であったはずなのだが、いざ彼の妻の妊娠という現実を突きつけられると、優越感だの割り切った関係を続けられるといった自信だのは、いっぺんに崩れ去ってしまうのだ。
ボクはU子とのメールのやりとりでリアルタイムに彼女の心の動きと向かい合っていたが、幸せを感じさせてくれるはずのものが、幸せを脅かすものに変節してしまったことに怯えるU子が痛々しかった。
ほどなくして、彼の海外転勤が決まり、彼は家族を伴って日本を、そしてU子のもとを離れていった。
考え込んでしまったり萎えたりしてしまってもどうしようもないくらいに、物理的な隔たりが二人のあいだに出来た。U子自身は辛いだろうが、冷却期間としては悪くない展開だったかもしれない。
そっとU子のほうから彼の任地に出かけていったり、彼が帰国したらまた関係を復活させるということもありうるだろうが、一度迷路に陥った恋ならば、会いたくても会えない時間や距離を冷却期間にしてみることも大切だ。
今度のことでU子が、激しく傷ついたり儚(はかな)んだりすることなく、むしろ、何かを学んで、今よりももっと優しく逞しい女性になってくれていればいいのだけど。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/26(日) 01:28:11|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

ボクは、自分では比較的穏やかな気性の人間のつもりでいるけれども、実際のところ、情緒にはけっこう波がある。精神的に弱い面がある、とも言えるかもしれない。
激しく落ち込む時もあれば、ひどく苛立っている時もある。
そんな時に誰かが、「話を聞いてやるよ」とか「慰めてやってもいいわよ」とか言ってきたとしても、そんなことよりもボクが望むのは、放っておいてほしい、ということだ。独りにしておいてほしいのだ。
幸いなことに、何かで気持ちが萎えるようなことがあっても少し時間が経てばそれも薄まることを、人生経験上ボクは知っている。少ししたらボクは復活するのだから、そのあいだは放っておいてほしいのだ。
ボクがそうであるならば、女たちだってそういう気分の時があるのではないだろうか。
そばにいてほしいのであればいくらでもそばにいてあげるけれども、そうではなくて、少しの間独りにしておいてほしいと、女もそう思うことがあるのではないだろうか。
必要としている時に放っておかれるのは悲しすぎるが、放っておいてほしい時にまとわりつかれるのも鬱陶しい。
相手の側も、しばしばそれを「愛しているからこそ」として、ついつい干渉過多になりがち。そっとしておいてあげることこそが、むしろ深い愛情の注ぎ方であることもある。
お互いの間の気持ちの距離を目測で測れるようになることも、恋のスキルだ。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/25(土) 00:33:01|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

『野辺のサンクチュアリ』
大館市の東の郊外、曲田(まがた)の集落に、異国情緒あふれる木造の小さな教会堂がある。キリスト教の会派の一つロシア正教の、北鹿ハリストス正教会曲田福音聖堂である。
この教会堂を建物の反対側から撮れないものかと裏手に回ってみたら、ちょうどおばあさんが畑で草刈りをしていた。畑から写真を撮らせてもらってもいいかとたずねたら、どうぞどうぞと気安く招き入れてくれた。
畠山ばあちゃん(恥ずかしがって下の名前は教えてくれなかった)は、もうすぐ九十歳。この畑はばあちゃんの家の畑ではないが、「放っておけばナガムシ(蛇のこと)が出るから」と、不在地主のこの土地を親戚筋にあたるばあちゃんが野菜づくりを兼ねて手入れしているらしい。
僕は、少し日が傾いてからシャッターを切りたかったので、畑に三脚を据えたまま時間の流れるのを待った。ばあちゃんは「もうすぐ九十だもの」と何度も繰り返しながら、少し草刈りをしてはシルバーカーに腰掛けて一休みする。
東北の山里の純農村地帯にキリスト教の中でも少数派のロシア正教の教会堂があるのは奇異に感じられるが、日本でのロシア正教の布教が幕末の函館にあったロシア領事館付属施設「救主復活聖堂(現函館ハリストス正教会)」から始まったことを考えると、曲田はむしろ伝道の源流域に近かったと言えるのかもしれない。
曲田では、村の肝煎(今で言えば村長)であった畠山市之助が率先して信者になり、明治25年に私財を投じて自家の屋敷内にこの聖堂を建てた。異教ゆえの迫害を受けつつも、生活改善という観点から葬式や供養などで仏教に比べて費用がかからないキリスト教を地域住民に勧め、多くの人々を入信に導いたという。
現在では過疎化や世代交代で信者は漸減している。畠山ばあちゃんも、「若い人たちはみんな秋田さ行ってしまって…」と少し寂しげにひとりごちる。曲田聖堂も、今では宗教施設という意味合いを超えて、この地域の歴史を物語る「モニュメント」的な存在になっているようだ。
目を凝らして見ると、建物の軒板にいくつもの丸い穴があいている。小鳥たちが巣を作っているようだ。教会をねぐらにするとは大胆不敵な鳥たちだが、人にとっての聖堂が鳥にとってもサンクチュアリ(聖域)になったのかと思うと、ちょっと愉快になってくる。曲田聖堂は、可愛い木の巣箱だ。
畠山ばあちゃんが畑の手入れをするのも、結果的には鳥たちを蛇から守っていることになる。
信者の数は減ったが、この聖堂のあたりは今でも穏やかで優しい空気に包まれているように、感ぜられるのであった。
[キャプション]
曲田聖堂は東京のニコライ堂の建設の関係者によって設計施工された。ニコライ堂に名を残すニコライはロシア正教日本伝道の祖。そのニコライに函館で日本の歴史や文化を指南した一人が、医家で儒教学者であった大館出身の木村譲斎という人物だ。大館とロシア正教には、不思議な因縁があるようだ
#2005年11月 『郷』Vol.55掲載
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/23(木) 18:28:39|
- ツシマノシゴト
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

借りていたDVDをいつTSUTAYAに返しに行くかという話になって、「ところで、『カレンダー・ガールズ』の他に何借りてたの?」と女房が聞いてくる。
「恋におちて」
「うーん、誰が出てるやつ?」
「ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープ」
「あ、あたし、それ映画館で観てるな」
「なに? あれは84年の映画でオレたちはもう結婚していたけど、オレは観てないぞ。うん? さては他の男と観たな?」
「ふふふ、そうだったかもしれないわ」
息子もボクの両親も一緒の、こたつに足を突っ込んでの夕食の時の夫婦の会話だ。
周りははらはらするかもしれないが、こういう会話を冗談めかしてしてしまうボクたち夫婦だ。
ボクも、もう晩酌の杯が進んでいて、へらへらと笑いながらそういう話をしている。
もしかしたら、本当に他の男性と観たのかもしれないし、一人で観たのかもしれない。でも、そんなことはどうだっていい。男だって女だって、人生には少しくらい“隙”があったっていい。“隙”を楽しむことに少しの時間を割いたっていい。そうでもないと、人生が窮屈になってしまう。
ほんとうに男と一緒だったのかと問い詰めること(それをすれば彼女の居心地が悪くなる)よりも、引き続き彼女の居心地のいい空気をつくることのほうが、亭主のシゴトとしてはより大事だ。
もっとも、これは、女房のほうから教えられたことだ。特別努力しているのか天然でそうしているのか知らないけれども、ボクは自分の女房に居心地のよさを感じている。それがなかったら、ボクとしては、カラダは家にあってもココロは遥か遠くに、いってしまっていたかもしれない。
自ら退路を断つような、激しく情熱的な恋をしようとは思わない。
帰るところがあるのなら、帰り道の途中でさらりとココロを着替えられるような、軽やかな恋がいい。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/23(木) 13:00:19|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

『カレンダー・ガールズ』と一緒に借りてきたDVDは、ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープの『恋におちて』。
特にこの映画が観たかったというのではなく、去年仕事で行ってきたニューヨークにボクはメチャクチャ惚れ込んでしまい、とりあえずニューヨークを舞台にした映画は一通り観ておきたいという思いでいて、TSUTAYAに行ったらすぐに目に入ったので迷わず借りてきたわけ。
イワユル、家庭のあるもの同士が恋におちて…というストーリーなのだけど、例によってノートパソコンで鑑賞しながら、家庭と“新しい恋”との間で激しく葛藤している二人に、「たぁー、もう少し割り切った考え方をしてもいいんじゃないのか?」とか、「家庭も恋も、どっちも立てるって考え方をすれば少しは苦しまずに済むんじゃないのか?」などと、ボクはツッコミを入れていくわけだ。
もっとも、そんなにドライにクールにスマートにコトが展開していってしまったら、味わい深い映画作品としては成立しなくなってしまうだろうけど。
坂道を下るクルマのように、勢いがついてしまってもう抑えきれなくなった自分の恋情に従い、男が用意したむつみごとの部屋までついていく彼女。
二人絡み合ったままなだれ込むようにベッドに横たわり、ブラウスのボタンに手がかかったせつな、はっと我に返り、起き上がって、「ごめんなさい。やっぱりできないわ」…と。
どうせいつかは終わる恋なのだから、せめて一度くらいは“思い出”をつくっておいたほうがいいのに…などとボクはツッコミを入れるのだけど、いや確かに、「はっ、何をしてるんだろう、私」…なんて感じで、突然ひどい悪夢から目覚めたような気分になってしまうこともある世界のようで、そういう意味では、この映画のプロットはとても正しい。
もう温かい我が家には二度と帰らない覚悟で先へ進むのか、自分の帰るべき場所をちゃんと温存した上でとても大切な二つの世界を行き来するのか、まず最初にそのあたりのことをはっきりさせておくべきだ…と、この映画は教えているんだな。(いや、教えてはいないって)
ああしかし、男と女の間に巻き起こる一陣のつむじ風は、なかなか映画的なモチーフだな。
たとえば、
空港の到着ゲートから出てくる男。
迎えに出ているはずのワンピースの似合う女の姿がない。
男はのんきな性格らしく、さして焦る様子も苛立つ様子もない。
そのうち彼女も現れるだろうからと、近くのベンチに腰をおろして、バッグからノートパソコンを取り出してネットへの接続を試みる。
うまくネットにつながって、「お、ラッキー♪」などと無邪気に喜んでいる。
Yahooのサイトでニュースなどを読んでいると、ワンピースの裾をひらつかせて小走りに彼女がやってくる。
少しおどけて顔の前で両手を合わせて、「ごめんなさーい。途中の駅で電車を乗り間違えちゃって…」などと言い訳をする。
男は、パソコンをしまいながら、飄々とした顔つきで、「うん、問題ない。ボクも今着いたばかりだから」などと、冗談めかした言い方をする。
「とりあえずぅ、メシでも食うか」到着ロビーを並んで歩いていく二人…
実体験かって?
さあ…
- エンパイアステートビル展望台 -
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/22(水) 00:20:29|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:5

昨日の夜、女房がTSUTAYAに行くというので、ボクはもう使い物にならないくらいに酔っぱらっていたのだけど、女房の運転するクルマに乗ってついていったのだ。
そのうちいつか観てみたいなと思っていた映画の一つに『カレンダー・ガールズ」というのがあって、ちょうどそのDVDがあったから、それを借りてきた。
で、今日の夕食後、ボクは自分の仕事部屋のiBookでそのDVDを見始めた。
二階の寝室の石油ストーブの油が切れて、明日にならないと補給も出来ないものだから、「寒い寒い」と言いながら女房がボクの仕事部屋に避難してきた。
彼女とボクの映画の趣味は完全には一致しないけれども、ちょっとジーンと来るようなヒューマンタッチのテイストの映画は二人とも嫌いではない。
ボクが見始めていた『カレンダー・ガールズ』には彼女にも惹かれるものがあるらしく、ストーブの前に突っ立ったままiBookのディスプレイを眺めている。
“立ち見”はくたびれるからと、ボクは彼女の腰に手を回してカラダを引き寄せて、ボクの膝の上に座らせた。
これが失敗だった。
めっちゃくちゃ、重いのだ。
(お、おい、お前はいつからこんなに重くなったのだ?!)…と、口にこそ出して言わなかったけれども、予想外の重さにボクは驚愕していた。
さりとて、自分からカラダを引き寄せているので、「重いからどいてくれ」とも言えない。
途中、シャワーを浴びるため一度部屋を出て行って、少ししてから、「結局あの夫婦は別れたの?」などと席をはずしていた間の展開を聞きながら、パジャマに着替えて今度は自分からボクの膝の上に座ってきた。
重たい彼女のカラダがバランスを崩したりしないように、ボクは自分のカラダをよじったり、彼女のカラダに手を回して支えたりする。
ミニシアターで娯楽映画を楽しく鑑賞してもらうための、ボクは“人間ソファ”だ。
実話を基にしたこの映画は、僕は好きだ。とても楽しめた。
膝の上の重たいやつも、ひとしきり楽しんでくれたみたいなので、何より何よりの、日曜の夜だった。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/20(月) 00:24:51|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:5

港の近くの、例えて言えば青木ヶ原樹海のような、密林化してしまってもう誰も足を踏み入れる者などいない砂防林の中に、忘れ去られた古代の遺跡のような展望台があった。
展望台といっても、ただの給水塔のような、四本のコンクリート柱で支えられた、なんの変哲もない無骨な四角い塔だ。それはもうほとんど廃墟のような存在で、クルマの通れる道から少し離れていることもあり、何年もこの展望台の上まで登って眺望を楽しんだ者などいないのではないかと思われた。
物好きなボクは、四本の柱の内側にあつらえられた崩れかけた螺旋の階段を登って、小さなビルの3階ほどの高さになろうかという展望台の上に出てみた。
そこから見えたのは、砂防林越しの火力発電所だけであった。その向こうにあるはずの日本海までは見通せない。
この展望台は、あの火力発電所を眺望するためにだけ造られたのだろうか。それとも、展望台が完成した頃はまだ砂防林の松も背が低く、遠くロマンチックに日本海の水平線を眺めることも出来たのだろうか。
展望台建設のいきさつはともかくとして、そこから眺められる夕刻の火力発電所の眺望は、007の映画にでも出てくる秘密基地のようでもあり、かてて加えて、この展望台の存在すら世間にはほとんど知られておらず、ボクは、自分だけのすごい秘密の場所を見つけた思いで嬉々としていた。
その展望台から火力発電所の写真を撮ったのはいうまでもないが、いつかその写真を見た人が「これはどこから撮ったのだ?!」と怪訝な顔をしないものかと、いたずらを仕掛ける子供のような愉快な気分でいたものだ。
夜陰に乗じるように、わずかな時間の逢瀬を何度も何度も重ねるヒトが出来たとき、「今日はこのコをどこまで連れて行こうか」と、ボクはしばしば思案するのだった。
「そうだ。ボクだけのあの『秘密基地』に連れて行こう」
日が暮れてからの展望台への道のりは、とても侘びしい。
「…どこへ行くの?」
少し不安がる彼女に、「いいからいいから。着いてからのお楽しみ…」と、ボクはニヤけてはぐらかすのだ。
なかば怯えているようでもある彼女の手を引きながら、ボクは展望台の階段を登っていく。
「うわぁー…」
展望台のてっぺんにたどりついた彼女が、小さな歓声を上げる。
「どうだ、すごいだろう」…、ボクは、少し自慢げだ。
ずっと、火力発電所の夜景に、言葉もなく見とれている彼女。
その後ろから手を回して、ぴったりとカラダを重ねて彼女を抱きしめているボク。
この場所は、ボクときみの、二人だけの秘密基地だ。
あの展望台から火力発電所の写真を撮ってから、そして、展望台の上で彼女に口づけをしてから、どれだけの月日が流れたのだろう。
ボクは、最近になってデジタルカメラを使い始めたので、フィルムで撮っていた場所を改めてデジカメでも撮っておこうと思い、久しぶりにあの展望台に登ってみたのだ。
悲しかった。
ボクの中では、それほど長い年月ではなかったと思っていたのに、砂防林の松の背が伸びて、火力発電所はまるで見えなくなってしまっていたのだ。
結局、展望台では一度もシャッターを切らなかった。
もう二度とあの展望台を訪れることはないだろう。眺められるもののない展望台になってしまったのだもの。
少しでも火力発電所が見えていたら、彼女と登ったあの日のことも甘酸っぱく思い出せたかもしれないのに、“あのコのことはもう忘れろ”…と、最後通告をされたような気分になって、少し泣けた。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/19(日) 00:19:40|
- ポジフィルム
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

いつかは終わる、恋もある。
恋には最初から、それぞれの寿命というものがあるらしい。
とても永く続く恋もあれば、永く続くことを願っていてもあっけなく終わってしまう恋もある。
それはみな、その恋の寿命なのだ。
今目の前にある、終わろうとしている恋。
その恋を終わらせようとしている人。
ボクは、その人を半分怨みかけている。
勝手にボクの恋を終わらせようとしている人。
だけれども、怨んではいけない、とも思う。
きっとこれは、ボクたちの恋の寿命だったのだ。
誰かを怨んでばかりいて、楽しかった時間があったことまで忘れるのは寂しい。
去っていく人の後ろ姿ではなく、こっちを向いていつもにこにこと微笑んでいた人の姿を、ずっと覚えているボクでいたい。
泣きながら泣きながら、怨んだら負けだと自分に言い聞かせて、寿命のときに立ち尽くす。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/18(土) 00:50:49|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

カミさんが、晩酌をしているボクに、「ねえねえ、100%のレモン果汁、買ってあるんだよ」と、言うのである。
アル中のボクは、ひどい安物のペットボトル入りの焼酎を晩酌や寝酒に飲んでいるのだけど、ボクから頼んだわけでもないのに、カミさんは、焼酎に割って飲んだら美味しそうだからと、そのレモン果汁を買っておいてくれたのだ。
このごろ少し稼ぎも悪く、そのわりにはだらだらと酒ばっかり飲んだくれて、そのせいもあって目に見えてデブになってきているというのに、それでもきみは亭主にうまい酒を飲ませたいというのか。
言葉でねちねち言われるよりも、こういう女房のタクラミのほうが、効くね。
こいつのためにも頑張らねばな…と、思うわけだ。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/16(木) 23:58:18|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

むかーしむかし、津島がまだ天狗だったころ、一人の女性から「食事をしよう」とかなり熱心に声をかけられていたことがありました。
どちらかといえば、「ぜひぜひ!」とこちらからもお願いしたいタイプの女性ではなかったのだけれども、『来るもの拒まず、去るもの追わず』という考え方でいたので、それじゃあまあイタ飯でも食いにいきましょうか、ということになったわけです。
ひとしきり語らいながら食事をして、駐車場からクルマを出してしばらく国道を走りながら、(はたしてこのコは、今夜どのあたりまでいきたいのだろう…)などと頭の中で考えてみたりするわけです。どうする?…ってボクが聞いたら「おまかせするわ♪」なんて言ってくるのかな、などと妄想してみたりして。
なにしろそのころの津島は少し天狗でしたから、彼女の意向を尊重しつつも、こっちの気分でちょっと強気に押してみたいという思いもあったわけです。なにしろ天狗でしたから。
「じゃあ、ちょっと休んでいこうか」「えっ」
彼女はちょっと息をのみました。どうやら、そんなつもりではなかったみたいです。
ああ、でも、(天狗な)男のサガとして、大人同士の男女で女性のほうから食事をしたいと声をかけてきたのなら、食事の後のソノヨウナ展開は当然想定内ではないのか、と決め込んでしまっているわけです。
そんなつもりはないとか言われても、こちらも口に出してしまった以上、今さらあとにも引けなくて…。
「ま、いいじゃないですか」と、天狗なボクが少し押したら、(しょうがないわね)って感じで、こちらに従う素振りを見せました。
それで、そのあとのあんなことやこんなことは皆さんのご想像にお任せしますけど、正直言って、ボクは今でもちょっと苦々しく思っています。ちっとも、盛り上がらなかったのです。ボクが強気に出たから彼女も仕方なくついてきたけど、彼女自身としては全然気乗りしていないから、ひどく味気ないひとときでした。もちろん悪いのは天狗のほうであって、彼女に罪はありません。彼女には申し訳ないことをしたなという慚愧の念があります。
やはり、ああいうことは、どちらか一方の磁力で強引に引き寄せるのではなく、お互いの微かな磁力が呼応しあって、自然に吸い寄せられていくというカタチのものに限ります。きみの磁力をボクが感じ、ボクの磁力をきみが感じ……みたいな。
「来るもの拒まず、去るもの追わず」という考え方は、原則的に今でも踏襲していますけど、やはりオトコとオンナというものは、お互いの磁力とか波長とかいったものをよく見極めてから展開を考えていったほうがいいらしいと、その“授業”からボクは学んだのでした。
かかってきた電話に出たときに、無言のまますぐに電話を切られると、たぶんそれはただの間違い電話だったのかもしれないけど、もしかしてあのときの彼女ってことはないだろうなと、少しビクビクしてしまう、天狗の成れの果てです。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/15(水) 23:19:37|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

ボク自身は最初から、カミさん以外の女性と会うこともあると公言しているので、自分の行動についてはかなりあけっぴろげにしているのだけれども、会っている相手のほうは、できれば、いや、絶対に、世間には知られたくない、というケースも、ないではない。
結婚している者(同士)が、配偶者以外の異性と親しくするのを、好ましいことではないと考える人も多いだろうし、「他の人を好きになったのなら、きっちり離婚してからつきあえばいい」などという言い方をする人もいるのだけど、同時に複数の人に親しみを覚えてなぜいけないのか、という考え方もあると思う。無軌道に突っ走って、自分でも収拾をつけられなくなるような人間には、「少しは考えて行動しろよ」と言いたくなるけれども、もし自分のささやかな幸福感の代償に誰かを苦しめることもなく、粛々と二つの幸せ、あるいは、二つの平和を享受するのなら、そういう生き方もありだ。
だから、つとめて周りに知られないようにするというのも、賢明なことだ。
どこかの駅の改札口で彼女と落ち合い、これから半日のデートを楽しむ。
この街であれば、どちらの顔見知りにも会うことはないだろう。
ボクは首からカメラをぶらさげ、そぞろ歩きながら、気になった景色があるとレンズを向けてシャッターを切る。
彼女もデジカメを持ってきている。二人の感性が似通っているのか、しばしば同じものにレンズを向ける。彼女が写真を撮っている間、ボクはかたわらでニコニコしながらその様子を眺めている。そして、ボクもどうしてもその被写体が気になるので、自分のカメラでも撮る。
だけれども、ボクが撮ったその写真は、おそらく数十年は人の目に触れさせることはないかもしれない。
もし何かの拍子に、彼女の撮った写真とボクの撮った写真を見比べられるようなことでもあると、その日その場所にボクたちが二人でいたことが歴然としてしまうからだ。
彼女の身辺の平和のためなら、ボクは喜んで自分の写真に封印をする。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/14(火) 23:42:44|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4

何年か前、女友だちの一人が、夫との関係が絶望的になって、いよいよ決断を迫られることになった。
その夫という人は、ちょっとした病気で入院をして、そのときの薬の副作用だったのか、がらりと人が変わってしまったのだ。
ちょっとでも気に入らないことがあると、彼女に暴力を振るうようになった。
決して短くはない二人の結婚生活だったけれども、もうこれ以上の結婚生活の継続は不可能と思われた。
精神が正常なら、冷静に話し合って、建設的な形で今後のことを模索するという方法もあるだろうが、もう話し合いでどうにかなるような状態ではなかった。
下手をすれば、生命の安全すら脅かされる状態なのだ。
ボクも、「離婚の手続きとかは後回しにしても、とりあえず物理的に離れたほうがいいのではないか」と言った。
それは彼女も考えていたようだったけれども、心が病んでしまっていた夫は、ほとんど軟禁に近い状態で彼女を拘束し、買物などのわずかの時間以外は外出すら認めなかった。
最低限の荷物をまとめて家を出るということも出来なくなっていたのだ。
「唯一考えられるとしたら…」と彼女は言った。
「夫が寝静まったのを見届けて、夜中にそっと家を抜け出ることだ」…と。
夜中に家を抜け出てどうするか。
とりあえず市内のホテルに数時間身を潜め、朝になったら一番電車でこの街を離れることだ。
でも、万が一、朝になる前に夫が妻の出奔に気づいてしまったら、しらみつぶしに市内のホテルをさぐられて、あるいは駅で見張られて、この街を抜け出る前に見つかってしまい、さらに手ひどい目にも遭いかねない。それくらいはやりかねない状況だった。
だとしたら、朝になる前にこの街を離れ、少しでも早く遠くまで行ってしまわなければならない。
そこまで話を聞かされたら、「そんなややこしいことに俺は関わりたくない」とは言えないではないか。
「わかった。じゃあ、こうしよう。今から数日、オレはいつでも動けるように待機しているよ。決行の日が決まったら、携帯に電話をくれ。すぐにきみを拾いに行って、そのまま夜のうちにM市(隣の県の県庁所在地)まで走ろう。そこから朝の一番列車で、安全な遠くの土地に向かえばいい」
ボクに言わせれば、友だち付き合いをしている女性にそれくらいのことをしてやるのは、当たり前のことだと思っている。
あとは、うちの女房だ。
夜中に(もしかしたら、もうベッドに入っている時間だ)、女から電話がかかってきて、「ちょっと出かけてくる」と言って身繕いして家を出て、翌日の昼近くまで戻ってこないのだ。事情を知らせないわけにはいかないだろう。
ボクは、女房に一部始終を説明して、「そういうわけだから、いつになるか分からないけど、夜中に電話がかかってきたらオレは動くから、承知してくれないか」…と。こういうことはちゃんと分かってくれるボクの女房だ。
さて、その夜逃げが決行されたかというと、実は、未遂に終わった。
少ししたら、夫もやや正気を取り戻したようで、まともに話し合いが出来るようになり、協議離婚という形で、比較的穏やかな決着を見ることが出来たのだ。
彼女は今、この街を離れ、遠くの街で新しい住まいと仕事を見つけ、ときおりボクに届くメールによれば、わりと快活に暮らしているようだ。新しく恋をして今度こそ幸せな結婚生活を勝ち取るのか、あるいは、もう結婚には懲りて一人で自由気ままに生きていくのか、そこまでは彼女の気持ちを聞いていないけれども、ひとまず、ペシミスティックな精神状態を引きずっていないのは幸いなことだ。
彼女の夫だった人ももうこの街には住んでいないので、いつか休みがとれたら、ボクを頼ってのびのびとこの街に遊びにきてくれたらいいのだけど。
以上、人妻と夜逃げをしそこなった事件の顛末…
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/14(火) 01:34:32|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

今の恋人たちは恵まれている。
一人一人が携帯電話を持っているので、デートの約束をしていて、ちょっと遅れそうになったり予定が狂ったりしたときには、リアルタイムに連絡を取り合うことが出来る。
その代わり、風向きが変わり始めたときの展開もリアルタイムになりがちだ。ムカシだったら、ちょっと雲行きがあやしくなっても、次に連絡を取り合うまでに少し時間があり、その間に、怒りや憎しみが鎮まったり、相手に投げかける言葉を選ぶゆとりもできたりして、つまり、失速した恋が真っ逆さまに墜落することもなく、少なくともどこかにソフトランディングする場所を見つける時間は確保された。
お互いがリアルタイムに連絡できる手段を持つというのは、あとになって後悔してしまうようなことでも早まった答えを出してしまう危険性をはらんでいる、ということでもある。
携帯電話が登場する前は、恋人たちの通信手段はポケットベルだった。まるでスパイ同士が秘密の連絡を取り合うように、暗号めいた数字の羅列でデートの約束などをしていた。
さらにその前の時代は、もう、固定電話のある場所でなければ連絡は取り合えなかった。アパートや寮住まいだと、大家さんや管理人室の電話で取り次いでもらうかたちになり、電話でしみじみと愛を語り合うなどというのは考えられないことだった。
それだけに、恋人同士にとっては、リアルに“逢っている時間”こそが、今以上に価値のあるものだったのかもしれない。
東京でアパート暮らしをしていた若い頃、ボクには珍しくガールフレンドが出来た。
彼女の家に電話をするとまず父親か母親が出て、恐る恐る願い出て本人に取り次いでもらい、日曜日のデートの約束を取り付ける。
ボクは約束の時間よりも少し早めに待ち合わせの喫茶店に入り、雑誌をひろげてコーヒーをすすりながら彼女の到着を待つ。
10分経過。来ない。30分経過。まだ現れない。
ただの遅刻にしては遅すぎる。何かあったのかもしれない。
急病であったり、あるいは、急に彼女が心変わりして、もう金輪際ボクの前には現れないつもりなのかもしれない。いろいろな悪い想像。
喫茶店から彼女の家に電話することも考えられたが、こんなことになるとは予想もしていなかったから番号のメモも持ってきていない。
しかし、この時代の恋人たちは悠長だ。ボクは、「今日は彼女とデートするつもりで、それ以外の予定は入れてないのだから、他にすることもない。彼女が来ないなら来ないで、もう少しのんびりここで休んでいよう」と考えた。
はたして、2時間ほども過ぎた頃、彼女は現れたのだ!
来てくれたのは嬉しかったけれども、2時間も過ぎているのにそれでもやってくるという彼女もスゴイな、と思った。普通だったら、「こんなに時間が過ぎてしまったらもう待ってくれているわけはないから、今から行っても会えっこない」と考えそうなものではないだろうか。それでも来てしまうのだから、さすがのボクもそれにはちょっと笑ってしまった。
この時代の恋人たちは悠長なのだ。
結果的にはあまり長続きはしない恋だったけれども、その日はいろいろ語り合い、日が暮れてからは居酒屋で酒を酌み交わし、楽しい休日を過ごしたのだった。
来るか来ないか分からない人を待っている時間も、恋愛時間の一部です。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/12(日) 15:46:34|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:6

夕食後、特に観たいテレビでもなければ、ボクは仕事部屋にこもる。
こもると言っても、必ずしも仕事をしているわけではなく、ヒマな時は酒を飲みながらだらだらとネットサーフィンなどをしているだけだ。ブログを書くのもだいたいそんな時間だ。
その時間、女房のほうは寝室でテレビを観ているか本を読んでいるかだ。
女房に観たいテレビがなくなると、トントンと二階の寝室からおりてきて、ボクの仕事部屋の前まで来て「お風呂入るよ」と声かけて、自分はさっさと風呂場に向かう。
ボクの仕事が忙しい時は、彼女の言葉を無視してそのまま仕事を続けるのだけれども、区切りをつけられる時は、少し遅れてボクも風呂場に向かう。
新婚当時ならいざ知らず、成人した子供もいるくらい長く夫婦をやっていて、今でも一緒に風呂に入っていると言うと驚かれることがある。
ボクら自身からすれば、特別なことでもなんでもなく、たまたま結婚当初から続いている習慣に過ぎないのだけれども。
せっかく(?)素っ裸のオンナと一緒に風呂に入っているというのに、その入浴時間のあいだに彼女の尻や乳房をまったく見ずに終わってしまうこともある。いや、視野の中には入っているのだろうけど、まるで“眼中にない”って感じなのだ。それくらい自然な、夫婦の日常だ。
それでも、時には、彼女の垂れた尻や、三段腹をしげしげと眺めて、“今初めてこの女と出会った男がいたとして、この裸体を見せられたら、少し萎えてしまうかもしれないな”…などと、腹の中では思ってみる。
幸いボクは、彼女がまだピチピチしていたときに出会っているから、そういう目で見ていると、この少しくたびれた裸体にも、むしろ愛着すら湧いてくるのだ。
- 補陀寺山門金剛力士像 / 秋田市 -
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/12(日) 01:32:00|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:5

中学2年のときに、クラスの女の子をどうしようもなく好きになった。
“つきあいたい”と思ったけれども、それを切り出す勇気は、ボクにはなかった。
ボクの態度がぎくしゃくしているので、いつの頃からか彼女にもうっすらとボクの気持ちが悟られたのだけども、それでもボクは、何をどうすればいいのか、まるで見当がつかなかった。
終業式の日だ。
3年になればクラスが変わる。彼女との接点は激減する。万事休す。何かするには、もう今日しかない。(今にして思えば、遠くに転校するわけじゃないんだから、そんなに切羽詰まった思いに駆られなくてもよさそうなものだけど…)
ボクは腹を決めた。自爆覚悟だ。(ほんとうは、それが一番こわかったのだろう)
彼女は放送部員だった。「話したいことがあるので、3時頃、堤防の上まで来てもらえないか」…そう書いたメモを、必死の思いで放送室まで持っていき、そのとき彼女はいなかったので、居合わせた他の部員に「これをOさんに渡してほしい」と頼んで、逃げるように学校をあとにしたのだった。
彼女の家と学校の間には蛇行して川が流れ、その堤防が彼女の通学コースだった。ときおり、ガタンガタンと音を立てて列車が鉄橋を渡っていく。
なんでそんなところを告白の場所に選んだんだろうな。滑稽だな。学校の中だってよかっただろうに。チュー坊の頭の中は、なかなか理解しがたい。
チュー坊のボクは、少し早めに堤防の上に行って、ほんとうに彼女が来てくれるかどうか、そわそわドキドキしながら待っていた。
来た。遠くから、小走りに彼女が駆けてやってくる。来てくれた!
やっとのことでボクは想いを伝えて、つきあってほしいと申し出た。
彼女もOKしてくれて、それからの1年間は、少年少女の稚拙な恋の真似事の日々を過ごすことが出来たのだけれども、いかんせん、“人を好きになる”ということと“誰かを深く愛する”ということの違いも分からないはなたれ小僧のすることだもの、別々の高校に通うあたりから、つきあっているのだかつきあっていないのだか分からないような状態になってしまった。
こんなどっちつかずの関係を続けていても埒があかないから、彼女がボクの高校の文化祭にやって来た高校2年の秋に、「もう終わりにしよう」とボクのほうから切り出したのだった。
四十を過ぎてから、一度だけ同窓会で彼女と再会した。
でも、あまり言葉は交わさなかった。それは、未だに彼女の前では意識してしまうということが半分、そして、今さら声をかけてどうする…という冷めた気持ちが半分、というところか。
四十を過ぎてからチュー坊のころの恋を蒸し返すつもりなどさらさらないけれども、“今が幸せであってほしい人”と、思い続けている一人ではある。
確か一度は結婚していたはずなのだが、今でも旧姓を名乗っているワケは、聞きそびれたままだ。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/11(土) 00:13:18|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:3

ボクは、ことさら図太い神経をしているわけではない。
ときどき、小さなことでもメチャクチャ凹むことがある。
気力にも波があるようで、ちょっとした苦境に立たされても意に介さずヘラヘラと笑っていられる時もあるけど、その反対に、自分がこの世で一番情けないやつに思えてしまうこともある。
たとえば女友だちと会食の約束をしていたとしよう。
約束をしたあとに、急に自分を“凹みモード”が襲ってきて、ひどく気持ちがナーバスになり、あまり愉快に友人と食事を楽しみたいような気分ではなくなってくる。
相手によっては、約束をキャンセルしてしまうかもしれない。
しかしまあ、ひさしぶりの再会を、向こうも楽しみにしているようだし、彼女に愚痴の一つもこぼして慰めてもらおうかと、約束通りに待ち合わせの場所に向かうのだ。
人には、どうしても、相性のいい人と悪い人とがいるのかもしれない。行きがかり上、つとめて対人関係をうまくやっていかなければならない相手がいたとして、一生懸命努力や工夫や辛抱をしても、水と油のようにどうしてもなじみ合えないこともある。
その一方で、まるでジグソーパズルのピースがパチンパチンと気持ちいいくらいにすっきりおさまっていくように、とても穏やかな気分でその人との一緒の時間を過ごせることもある。
(ああ、約束通りにこの人と逢ってよかったなあ)
つかのまのことだけれども、ボクの中の萎えているキモチを、彼女がさらりと吸い取ってくれるのだ。
そのために彼女が特別の努力をしているわけでもなく、特別の才能があるわけでもない。
むしろ彼女は、あるがままの姿でそこにいる。むしろボクのほうが、彼女の抱えているものの聞き役に回ったりする。
結局それで、ボクのほうの愚痴はこぼせないままにその夜の会食は終わってしまうのだけれども、そんなことはもうどうでもよくなってしまう。というか、わずかの時間を一緒に向き合って過ごしただけで、愚痴を聞いてもらってすっきりしたくらいの効果が、ボクにはあったのだ。
彼女のためにも…とまでは言わないけれども、少し頑張ってみようかな、という気分になってくる。
人は、凹みやすい生き物です。
凹んでいるときの、傍らにいる人の優しさには、魂が救われます。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/10(金) 01:15:24|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

友人知人の誕生日を忘れないように、メモにまとめてあるのだが、なぜか三月が誕生日という人が妙に多いのだ。
十月十日前の前年五月に何があったのだ?!…と、いろいろと想像してみたくなってしまう。
まあ、三月生まれが多いというのは、たまたまの偶然に過ぎないと思うのだけど、ふと我が身の来し方を振り返ってみても、五月に新しい出会いがあったり、少しずつ温めていたものあるいはそれまでずっと常温だったものが五月に突然臨界点に達した、というケースが、実はいくつか思い当たるのだ。(ボクには三月生まれの子供はいないけれど…)
長い冬が過ぎ、四月は新しい環境で少し気ぜわしく、ゴールデンウィークも過ぎて、ふと気が緩む…、その間隙を突かれるということか(^^;
五月は“恋の新年度”、と呼んでもいいかもしれない。
- 法体の滝 / 秋田県由利本荘市 -
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/08(水) 00:41:55|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4

そばにいてほしいときとか、言葉をかけてほしいときとか、癒してほしいときもあるけれど、ときには放っておいてほしいこともある。
人が萎えているときには、なんとかしてあげたいと思うのが優しさだけれども、あえて干渉せず(一緒にいられなくて寂しくても)、時がくるまでそうっとしておいてあげることが一番の優しさ、気遣いになることもある。
そんなときに、ずかずかと「力になってあげたいのよ」などと踏み込んでくるのは、人のココロを知らなすぎるし、まして、そういうタイミングで「このごろ冷たいね」などという言葉しか出てこないとしたら、それは、萎えている人にはどれほど残酷なことか。
人のココロには、さすってほしい傷跡もあれば、触れてほしくない傷もある。
愛する人をちゃんと放っておける人は、心の強い、優しい人だ。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/07(火) 00:06:11|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:5

穏やかな凪の海の上で海図をなくしてしまった水夫のように、ボクは途方に暮れている。
ボクと彼女は親しい間柄だった。彼女の心の中にも何か浮き立つものが感じられて、頻繁にメールをもらったし、誕生日やバレンタインデーには欠かさず贈り物もあった。(もちろんボクもそれに応えていた)
だけれどもいつの頃からか、彼女の心の中にあったはずの浮き立つものが、ボクには見えなくなってきていた。
「もう終わりにしよう」…などとはっきり宣言されたわけではない。でも、「このままで終わってしまっても、さほど惜しいとは思わない」…と、彼女のこのごろの態度は、無言のうちにそう語っているようでもあった。
そう、たぶんボクは、もう、失ってもさほど惜しい存在ではなくなってしまったのだろうな…とひねくれつつ、さりとて、「オレたちはもう終わりなのか?」などと、安っぽい恋愛ドラマのように言葉にして答えを出したいとも思わない。
いいニュースは何もないけれども、凪いでいる今のこの海の心地は悪くない。
凪いでいる海の上で、楽しかった頃のことを夢に見ながら、苦しまずに穏やかに息を引き取るような恋の終わり方も、悪くないのかも。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/05(日) 01:09:14|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

三十代の頃、レジャー雑誌の記者(兼カメラマン)をしていて、読者モデルを同行させて温泉取材に行く、ということをよくやっていた。
タダで温泉旅行が出来てアルバイト料がもらえて本にまで出れるのだから、一度募集をかけるとかなりの数のモデル応募があったものだ。
そんな中から少し仲良くなる女の子も出てきて、「この次もぜひ使って」とお願いされると、ちょっと私情混じりに、「今回もこのコでいきましょう」などと、ナニゲにプッシュするのだった。
北東北の雪の中の古びた温泉宿に、何度目かになる読者モデルを伴って泊まることになった。
その頃のボクには、“まだ”奥さん以外の女性とことさら親しくするという観念がなく、若い女性と二人きりで温泉旅行をするといっても、これっぽっちの邪念もなかった。
まったくただの一度もなかったかというと、それは今日のテーマからはズレるので、次の機会に譲る…。
彼女とは何度目かの同行取材になるので、泊まる部屋は別々だけれども、食事は一緒にとったり、ちょっとした空き時間には親しく雑談などをして過ごした。
ボクは、女性をクルマに乗せるときなど、「タバコ、吸うんだったらご自由にどうぞ」と声をかける。ボクは自分ではタバコはやらないけれども、傍らで女性が吸うことには全く抵抗がない。彼女は「あ、私吸いませんから」と言うのだった。
日のあるうちに宿について、とりあえず入浴シーンを撮って、次は食事のシーンだけれども、まだ少し時間があるので、ひとまずめいめいの部屋に戻って休憩タイムだ。
途中でちょっと思いついた連絡事項があって隣の彼女の部屋を訪ねたら、風呂にでも行ったのか、不在だった。
ふと、座卓の上の灰皿の中の丸められたティッシュが目にとまった。ゴミならくずかごに捨てればいいのに、なぜそこに丸まったティッシュ? あまりいい趣味ではないけれども、気になって少しそれを広げてみたら、中身は一本の吸い殻だった。あれ?このコはタバコを吸うのか?
半開きの彼女のバッグには確かにタバコのパッケージが見える。
タバコは全然構わないからね、と言ってあるのに、なぜ、「吸わない」などと嘘をつくのだろうか。
いや、嘘をつくこと自体は構わないと思う。
恋人であれ夫婦であれ、嘘、あるいは、言わないでいること、あるいは、秘密、はあってもいいと思う。
秘密も持てない人生なんて窮屈すぎる。
ただ、嘘をつくなら、秘密を持つなら、最後の最後まで、嘘のまま、秘密のままで通すことだ。途中でほころびが見えてしまうと、なにか、いろんなことどもが、いっぺんに安っぽくなってしまう。
彼女にしてみれば、まさか一瞬部屋を空けたときにボクが入ってくるなどとは思いもしなかっただろうから、彼女には罪はない。ボクが一人で飲み込むべきことだ。
嘘は、上手についてほしい。
嘘をつかない人、秘密を持たない人になれ、とは言わない。
上手に嘘をつける人、悟られずに秘密を持ち続けられる人に、なってほしいと思う。
ハダカは見せてもいいけれども、ハラワタまで見せることはない。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/03(金) 18:03:50|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:7

ボクはもう掌握した。
ボクのどんな所作や言葉がきみを笑わせるのか、完璧にツボをおさえた。
「くっだらない」とか「けっ」とか言いながら、それでも堪えきれずにきみは吹き出してしまうのだ。
特別に滑稽なことでも、万人受けするようなネタでもなく、すごくなんでもない言葉や、ちょっとした仕草が、きみの笑いをとる。
それは、二人のあいだでしか通じない秘めた符丁、のようなもの。
そして、きみを笑わせることを楽しんでいるボクに、この恋がまだ元気なことが、実感できるのだ。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/02(木) 23:59:01|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:7

ボクに、恋に求めるものがあるとしたら、それは“心地よさ”です。(ときめきは、もういらない)
心地よさを求めて恋をして、なんだかその恋にそれが感じられなくなったら、ボクはずるいくらいに、その恋から途中下車します。
もし、あなたの“心地よさ”のためにボクがベストを尽くせなくなったら、その時も、ボクはその恋から逃げます。
乗り間違えた電車は、始発駅まで戻って、乗り直さなくてはいけないのです。
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2006/03/02(木) 00:43:30|
- OLYMPUS E-300
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2