
『母のオブラート』
小説『蟹工船』で知られる作家小林多喜二は、明治36年(1903)、現在の秋田県大館市下川沿に生まれた。
多喜二が生まれたころの小林家は生活に困窮しており、多喜二4歳の冬に一家は小樽へ移住した。小樽でパン工場を経営していた伯父を頼っての渡道だった。
小樽での一家の住まいは、小樽駅より二駅札幌寄りの小樽築港駅の駅前にあり、ここで伯父の工場のパンを売る店を始めた。多喜二は伯父の援助で学校に進むことができ、卒業後、小樽市色内にあった北海道拓殖銀行小樽支店に就職したのである。多喜二は築港駅から旧手宮線色内駅まで列車で通い、この銀行員時代に『蟹工船』や『不在地主』などの代表作を執筆していた。
多喜二の生きた時代は、今のように言論の自由といったものは保証されておらず、警察からマークされていた多喜二は、昭和8年(1933)の2月に非合法活動家として捕えられ、激しい拷問を受けてわずか29年の生涯を閉じるのである。
この人生の終え方が、多喜二について語るときの気分を少しばかり重苦しくさせる。社会の暗部というか、傷口というか、できれば触れずに避けて通りたくなるのである。
そんな重苦しい気分を和らげてくれるのが、三浦綾子の『母』という小説だ。この作品は、多喜二の母親セキの独り語りという手法で、秋田時代の小林家の様子や、小樽での一家の暮らしぶり、多喜二が死んだときの状況など、多喜二の全生涯が母親の目線で描かれている。作品自体は、実際にセキが語ったものを聞き書きしたのではなく、周辺の人々への取材や多くの参考文献を元に、三浦綾子がセキの想いを代弁するような形で創作したものである。
この小説でも紹介されているが、読み書きができなかったセキも晩年にはわずかに字を覚えることがあったようで、死後、遺品の中からノートの切れ端にたどたどしく書かれた遺筆が見つかった。
あーまたこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月か
いやな月こいをいパいに
なきたいどこいいてもなかれ
ないあーてもラチオて
しこすたしかる
あーなみたかてる
めかねかくもる(大意)ああ またこの二月の月がきた/ほんとうにこの二月という月がいやな月/声をいっぱいに泣きたい/どこへ行っても泣かれない/ああ でもラジオで少し助かる/ああ 涙が出る/めがねがくもる
小林多喜二という人物像を、母はオブラートで優しく包んで、改めて私たちに引き合わせてくれている。
[キャプション]
小樽築港駅を出る函館本線の電車。多喜二はこの駅から旧手宮線の色内駅まで列車で通勤していた。小樽築港駅前には多喜二一家の住居跡を示すプレートがある。
#2007年3月 『郷』Vol.63掲載
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2007/12/06(木) 18:19:58|
- ツシマノシゴト
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

『情熱のなまはげ』
もうすぐ秋田は小正月行事の季節になる。[※津島注 この原稿の初出は2007年1月です] 現在男鹿半島一円で大晦日に行われている「なまはげ行事」も元来は小正月の行事だったようだ。今年も2月9日から11日まで男鹿半島真山神社境内で繰り広げられる「なまはげ柴灯(せど)まつり」は、この民俗行事と真山神社の神事である「柴灯祭」を組み合わせて観光行事化したものである。
真山神社直下には平成9年に、通年でなまはげ行事を再現して見せてくれる「男鹿真山伝承館」が開設され、ついで平成11年に、集落ごとに実際に使われていたなまはげの面の展示と映像でなまはげ行事を紹介する「なまはげ館」が誕生し、両館は共通券を発行してなまはげに理解を深める機会をつくってくれたのだ。
ことに、伝承館のなまはげの実演が素晴らしい。夏期は連日1日13回も、12月から3月までは土日祝日のみだが1日6回、実際に目の前でなまはげ行事を再現してくれる。これには観光客は大いに感動する。子供や新妻を怖がらせるだけの野蛮な行事だと思い込んでいた人も、むしろその逆に、ほのぼのとした人のぬくもりの伝わる行事であることを知る。私自身も、秋田を訪れた知己がなまはげに驚き喜ぶ様子が嬉しくて、年に何度も客人を伴って両館を訪れているのだ。
「なまはげ館」には、来館者がなまはげの衣装を身につけられる「なまはげ変身コーナー」があり、こちらも観光客の人気を呼んでいる。いささか手前味噌ながら、私も去年の夏に親戚を連れて行き、ここで記念写真を撮って、帰ってからプリントしてみたら、その時は衣装を身につける順序などの説明書きが背後の壁の真ん中に張ってあり、それが写真に写り込んでいた。それがちょっと無粋に感じたし、セットの後ろの大きな一枚ガラスの窓からの逆光で撮影に失敗する人もいるのではないかと気になった。僭越ながら、そのことをメールに書いて「なまはげ館」に送っておいた。それからしばらくしてまた「なまはげ館」を訪れたら、ちゃんと説明書きが別の場所に移され、窓には逆光を抑えるシェードまでおろされていた。この対応の素早さに私は感動して、思わず支配人さんにお礼を申し述べたのだった。
「なまはげ館」は今年中には入館者が100万人に達する見込みだとか。遠くからのお客さんのために年中無休。なまはげ柴灯まつりの三日間は時間を延長して夜8時まで開いている。
男鹿のなまはげ人たちはなかなか情熱的なのだ。
#2007年1月 『郷』Vol.62掲載
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2007/09/08(土) 23:56:11|
- ツシマノシゴト
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

『ある男の墓碑銘』
昭和10年の第1回芥川賞は、秋田県横手市生まれの作家石川達三の『蒼氓』に贈られている。そこでは、神戸移民収容所に日本全国から集まってきた移民志願者(秋田出身者もおり、作品の中で秋田弁が飛び交う)が十日間の収容所暮らしを経てブラジル移住に旅立つまでの人間ドラマが描かれている。その『蒼氓』の冒頭にこんな一節がある。
この道が丘につき当って行き詰まったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘の上の是が「国立海外移民収容所」である。 『蒼氓』の中で、上流社会を象徴するトア・ホテルの存在は、移住以外には生きながらえる術がないほど食い詰めた貧農の悲哀を、一層際立たせるのだった。
このトア・ホテルが、実は同郷の建築家下田菊太郎の設計によるものだったとは、おそらく達三も知る由はなかっただろう。
慶応2年(1866)に角館に生まれ少年期を秋田市で過ごした下田菊太郎は、のちにアメリカに渡って建築の修行を積み、現地で数多くの建築を手がけ、日本人初のアメリカ建築技師免許を取得している。その実績を携えて明治31年に帰国し、日本に本場仕込みの本格的な近代建築を広める先駆者の一人になるはずであった。東京駅をつくった辰野金吾や、旧帝国ホテルの設計者として名を残すライトのように、日本の近代建築を語るときには忘れられない人物になっていたはずなのである。秋田県民にとっても、誇れる先人として多くの人々の記憶に残っていただろう。ところが、運命は彼に味方をしなかった。菊太郎が入学した工部大学校造家科の指導教授であった辰野金吾と折り合いが合わず、辰野を頂点とする日本近代建築の本流から疎まれて、終生傍流に甘んじなければならなかったのだ。
そして、さらに不運なことに、国内に残る菊太郎の施工例が皆無に等しい(トア・ホテルも昭和25年に火災で焼失している)ため、彼を語るよすがといったものが乏しいのだ。
唯一、長崎市に彼が設計した旧香港上海銀行長崎支店の威風堂々たる洋風建築が残っている。長崎市最大の洋館でもある。この建物も、昭和60年代には老朽化のため取り壊しが検討されたが、市民から取り壊し反対の声が上がり、一ヶ月で10万人(市内有権者の三分の一)もの署名が集まり、修復保存が決まったものだ。菊太郎は、かろうじて彼の墓碑銘を残すことが出来た。長崎市民にも感謝しなければなるまい。
#2006年11月 『郷』Vol.61掲載
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2007/06/26(火) 15:53:00|
- ツシマノシゴト
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

『ちょっと愉快な仁王クン』
失礼ながら、最初は何かの間違いではないかと思った。
大きなお寺や神社では、参道に仁王門があって一対の仁王像が祀られている。神聖な場に邪気を寄せ付けないのが仁王像の勤めだから、小さな子どもが見たら怖がるくらいに、ことさら険しい形相をしているのが仁王像の常だ。
ここは仙北市田沢湖梅沢の金峰神社。創建は養老2年(718)、社殿炎上の歴史を経て現在地に遷宮、仁王門の建立ですら今からおよそ150年前の安政4年(1857)の建立という、たいへん由緒のある神社だ。秋田県の天然記念物に指定されている樹齢400年ほどという参道の杉並木もなかなか見事なものだ。
それだけの由緒のある神社でありながら、あまたの寺社仏閣の険しい形相の仁王像とは一線を画す金峰神社の、すこぶる“ユニークな面体”の仁王像!
感じたままを正直に言わせてもらえるなら、まるで「子どもの工作」のようだ。いったい誰がつくったのだろうと逆に興味をそそられるが、近隣の大工の手によるものらしいという言い伝え以外には正確な記録は残っていない。
金峰神社は牛馬畜産の神様で、三代続く神社の社守で梅沢集落在住の高倉萬六さん(81歳)によれば、戦前戦中には200戸の集落で60頭のウマを飼っていて、神社の周囲は放牧場になっていたのだという。日が暮れる頃になると神社の周りで草を食む自家のウマを連れ戻すのが、子どもたちの仕事だったのだとか。
今は地域内でも牛馬の姿を見ることはないが、それでも金峰サマの威光はなかなかのものである。重い病気を患った人が神社にお参りしたら医者に宣告された余命よりも長生きできたとか、お参りした受験生が全員合格を果たしたとか、萬六さんは誇らしげに語るのである。
そういえばこの仁王像には、股の下を三度くぐらせると子どもの健康増進に霊験あらたかとの言い伝えがあるらしく、他では柵や金網で隔離されている仁王像も、ここでは引き戸で自由に中に出入りできる構造になっている。
金峰神社の仁王さんは、邪気を払うことよりも、人の命を育むことに思いを強くして、あのように柔和でユーモラスな面持ちでいらっしゃるのか。
神社では、今年前半だけでも4組の結婚式を挙げているという。時代に取り残された忘れられた存在ではなく、今でも人々の暮らしとともに息づいている“心のよりどころ”なのである。
#2006年9月 『郷』Vol.60掲載
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2007/06/12(火) 22:13:14|
- ツシマノシゴト
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

『英知のほとばしり』
仙北郡美郷町六郷は、湧水の里としてよく知られている。
街の中には主だったものだけでも60カ所余りの清水があり、今でも冷たく清らかな水が湧出している。
六郷の街の中心部は巨木が多く、街全体がすっぽりと森の中に包み込まれているような、とても風情のある街だ。夏の暑い日、六郷の緑陰に憩い、清冽な湧水でノドを潤してみるという「避暑ドライブ」も悪くないだろう。
この六郷の湧水群は、扇状地形のなせるわざであるが、六郷の人たちは、ただ一方的に天の恵みに浴していたわけではない。
ここは、秋田を代表する穀倉地帯である仙北平野の一角でもあり、農民にとって水は生命線。藩政時代から藩は水源域の七滝山の森林伐採を禁じ、山の保水力を高め、水源涵養に努めてきた。
米づくり農家にとって、水の確保は最大の関心事の一つ。ことに水不足の年など、地域ごとの水の取り合いとなり、時間で区切って水を分け合ったり、話し合いがつかない時などは近隣の集落同士で流血事件に発展するような水争いも絶えなかったという。
そのような水との苦闘の歴史の末に生み出されたのが、「円形分水工」と呼ばれる極めて合理的な分水施設だ。
六郷中心部から東方にある関田円形分水工は、丸子川から取水された水が地下を通って円形のタンクに貯められ、それがタンクの周囲にあけられた180個のオリフィス(孔)から溢れ出す。その水が各地域の受益面積に比例して集められて一本の堰になって流れていく。たとえば、全体の10分の1の水の配分を得る地域は、18個のオリフィスから溢れる水を一本の堰にまとめて引いていくことになる。
この分水工が完成したのは昭和13年(1938)。当時の最先端の分水法だったという。それから70年近くになろうとしているのに、今でも立派に現役で現代社会に役割を果たしているのだから、大いに評価していい存在と言えるのではないだろうか。
この分水工の水は、農業用水としてだけではなく、地域の人々の生活にも役立っている。分水工のある位置が標高約90m、町の中心部の平均標高が約50m前後。この高低差を利用して、町内の消火栓にポンプを使わずに消防用水を送り続けてきたのだ。
「日本人は、水と平和はタダだと思っている」などとよく言われることがある。しかし実際には、現代の水風景には、多くの先人の労苦と英知がしみ込んでいるのだろう。一杯の水を飲む時にも、そんな人と水の歴史に、想いを馳せてみたいものだ。
[キャプション]
六郷の円形分水工は、美郷町役場六郷庁舎前から東の「六郷温泉あったか山」方向4kmのところにある。現在は小公園風に整備されていて、間近に水の躍動を眺められる。湧水群が静の水風景とすれば、分水工は動の水風景だ。マイナスイオンも全身に浴びることができるだろう
#2006年7月 『郷』Vol.59掲載
テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真
- 2007/06/01(金) 18:11:33|
- ツシマノシゴト
-
| トラックバック:0
-
| コメント:3
次のページ